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離婚したばかりの29歳、鎌倉の別荘へ──小説『空と海のあわいに』第5話

8/30(金) 21:41配信

GQ JAPAN

甘糟りり子の連載小説。男友だち3人で飲み明かした翌日に鎌倉へ向かった傷心の29歳・大輔。友人の真守に留守番を頼まれる──毎週金曜日に更新!

【第1話を読む!】

真守(まもる)はやっとiPadから顔をあげた。

「ダイ、おまえ、ちゃんとお腹すいてる?」

「え? まあ、そうでもないけど」

「昨日も途中で食べるのやめちゃったじゃん。あそこの香港麺、上手いのにさあ」

「香港麺? そんなのあったっけ」

「麺好きのダイが全然手をつけないから、変だなって思ったんだ。あ、そうだ、サンマーメンって知ってる?」 

「秋刀魚がのっかってんの?」

「おれも最初、そうかと思ったんだけど、野菜炒めの餡かけがのってるんだよ」

「餡かけ? ラーメンに? それとも蕎麦?」

「ラーメンに野菜あんかけ。中華街発祥らしいんだけど、この辺も多いみたい。けっこういけるんだよ。よく出前とるのは必ずもやしが入ってる。しゃきしゃきの」

その店の番号はスマホに登録してあるらしく、真守はさっさと注文を終えた。サンマーメンを熱心に勧めてきたのに、自分は冷やし中華を注文した。この間来た時にも食べたから、とのことだった。30分もしないうちに、サンマーメンと冷中が岡持ちと一緒にやってきた。海を眺めながら、それを食べる。しょうゆ味の餡かけラーメンは思ったほど奇抜なものではなかった。餡には野菜の旨味が染み込んでいて、麺によくからまった。真守のいう通り、もやしがいいアクセントになっている。

さっきまで空腹は感じていなかったのに、あっという間に平らげた。

真守は、冷中の麺を箸で手繰り寄せながら、スマホをいじっていた。麺が伸びてしまいそうで、見ているこちらが少しだけイラッとする。

「悪い。おれ、今夜、ピンチヒッターで回すことになっちゃった。代官山でちょっとしたイベントがあってさ」

「そんなことより、麺が伸びるよ。集中して食べないと」

「わかってるって。あのさ、ダイ、明日も暇、だよね?」

「どうせ僕は無職で離婚したばっかで、もちろん彼女もいなくて、おまけに只今メンヘラ中。暇だよ。穴があくほど暇だ」

「ちょっと、ここの留守番してくんない? 明日、植木屋入るんだわ」

昼過ぎに植木屋が来るので、門の鍵を開けて、午後3時にコーヒーを出す、任務はそれだけ。それ以外は好きにしていいというので、引き受けた。冷蔵庫の中のビールも、小さなセラーの中のワインも自由に飲んでいいそうだ。

「メンヘラ中のダイを一人で残しておくのがじゃっかん不安だけど、のんびり海でも見ながら、この先のことでも考えなよ」

コーヒー豆は鎌倉駅近くの人気店「カフェ・ヴィヴィモン・ディモンシュ」のもので、エチオピア産。店名は「日曜日が待ち遠しい」という意味だとか。それを電動ミルで挽いて、ドリップで出して欲しいという。以前、真守がコーヒーを出したら、植木屋さんがいたく気に入り、「こんなにうまいコーヒーを飲んだのは初めてだ」といった。それ以来、必ずそうしているそうだ。

真守は午後5時発の江ノ電で帰っていった。9時からのイベントの前に USBを整理したいからなんていっていたけれど、服選びにも時間をかけたいのだろう。趣味がたくさんあるのは素直にうらやましい。大輔にはそんなにたくさんの好奇心を抱えておく気力がない。

真守を送りがてら駅の近くに食料を買いに行った。コンビニエンスストアの先には八百屋と肉屋、カツレツ屋と魚屋があった。商店街とはいえないほどの規模でも、まさしく商店街といった雰囲気だ。結婚していた頃、礼美(れいみ)と一緒にパエリアの材料を求めて築地の場外に行ったことはあるが、魚屋で買い物をしたことはない。

「っらしゃい。何か、お探しで?」

ぼんやりと店先に突っ立っていると、愛想よく店主にそう声をかけられた。カワハギの刺身とタコ、オススメだという塩鮭を買った。隣の八百屋ではキュウリとレタスとセロリ、ニンニクとレモンと食パン。

食材の入ったエコバッグを下げたまま海岸沿いの道路に出てみると、空が真っ赤だった。浜辺の右手にはさらに赤い夕陽。あまりの赤さに足を止めて見入ってしまった。海面も赤が染みている。きっと自分の頬も赤が反射しているだろう。しばし眺めてから、スマホで撮った。周囲のカップルやらグループやらたくさんの人もみんな、スマホを夕陽に向けていた。はしゃぐ声が聞こえたがどうやら中国語のようで、何をいっているのかわからなかった。

会った事のない男のセカンドハウスに戻って小さなセラーの中身を確かめる。ぺドレス・ブランケス2017の赤が4本、カーブ・ドッチのシャルドネ・ノンリパック2018の白が3本、ナナ・ヴァンのペティアンが1本、それからオルネライアのグラッパとフラミンゴオレンジの芋焼酎が収められていた。その中からナナ・ヴァンを選んだ。その名も「ソー・ホワット」。生産者の妻が好きなマイルス・デイヴィスの『So What?』と「マイナーな品種で泡を作って何が悪いの?」という意味をかけて、この名前がつけられた。なんていう由来は真守が教えてくれた。いつだったか、ワインバーで熱く語っていた。

「マイナーな品種で泡を作ったっていいし、ダイがフレデリック マルつけてもいいし、アゲハでモー娘。かけたっていいわけじゃん。でも、シャトーマルゴーをペリエで割るのは……、ないよな」とかなんとかいってたっけ。あれはこの家の持ち主からの受け売りだったのかもしれない。

調理に取り掛かる前にスマホをスピーカーに繋げて、古いエイフェックス・ツインのアルバムをかけた。

キッチンには一通りの調理道具が揃っていたけれど、どれもあまり使われていないように思えた。野菜を洗って水切りをする。ニンニクをおろして、オリーブオイルと塩胡椒を和え、そこにレモンの汁を混ぜる。そんなことをしながら、時々赤く燃える海を眺め、白ワインを味わった。

この景色を礼美に見せなきゃ。つい、思ってしまった。もうそんな必要ないのに。

カワハギには棚にあったカステル・ディ・レゴ・オーロのオリーブオイルを垂らして皿に盛った。タコと野菜はサラダに、人参はバターで炒めてグラッセに。冷凍してあったバゲットをトーストした。自分のために料理をしたのは、離婚を切り出された日のチャーハン以来である。一カ月半ぶりのことだった。

夕陽は時計の秒針のように着々と落ちていった。すっかり夕陽が山の向こうに落ちても、辺りはまだ赤い。光源がないはずなのにしばらくは空や海に明るさが残った。人の気持ちもこんなものかもしれない。元の気持ちがないのに、残像にこだわってしまう。

そんなことを考えていると、その明るささえもするすると退場していった。景色が生き物のようだ。今度は、そこらじゅう紺色になった。薄い紺色と濃い紺色のそのあわいを目で追ってみるものの、どんなに探しても境目は見つからない。

スピーカーの電源をオフにした。頭の中でエイフェックス・ツインが鳴っている。心の中のステレオだ。いつまでたっても紺色と紺色の境目は見えなくて、見つからないまま闇に包まれていった。

翌日、13時きっかりに植木屋さんはやってきた。長い髪を後ろで束ね、年齢不詳だが、それでも健全さが滲み出ている男だった。

「あれ? いつものお兄さんじゃないね」

「おれ、あいつの友達なんです。今日は急遽、代役で」

「あ、そう。じゃあ、今日はよろしくね。でもさあ……」

「はい?」

「ここの持ち主にたまには来るようにいったら? いつもの兄さんも留守番ないだろ? 家も庭も拗ねちゃうよ」

「はあ……。伝えときます」

それから植木屋さんは、鼻歌を歌いながら楽しそうに草木の手入れを始めた。3時になる直前、真守にいわれた通りに豆の分量を計り、ミルでひき、専用のケトルで湯を沸かし、陶芸のろくろを回すかのように注意深く湯をひいた豆に浸していった。植木屋さんは、「やっぱうめえわ、ここん家のコーヒーは。一等賞だわ」とかなんとかいって、いたく感動していた。それがちっとも大げさに感じられず、こちらが照れくさいほどだった。

植木屋さんが作業を終えたことを見届け、平屋の家を後にした。

帰りの横須賀線で横浜を過ぎた頃、自分が少し新しくなった気がした。ずっと放置したままだったグループラインを開けた。

―─返信、遅くなってすみません。おふたりには心配かけちゃいましたよね。僕、かなり、というか穴があくほど暇なんで、お忙しいおふたりでスケジュール決めてください。

つづく

PROFILE
甘糟りり子

神奈川県生まれ。作家。大学卒業後、アパレルメーカー勤務を経て執筆活動を開始。小説のほか、ファッション、映画などのエッセイを綴る。著書は『産まなくても、産めなくても』(講談社文庫)『鎌倉の家』(河出書房新社)など。

文・甘糟りり子

最終更新:8/30(金) 21:41
GQ JAPAN

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