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アヘン戦争からデモ隊まで、香港の激動の歴史を振り返る

9/1(日) 8:40配信

ナショナル ジオグラフィック日本版

1941年~1945年

日本が香港を占領する。この間、香港の人口は160万人から60万人にまで減少した。

1945年8月

英国が再び香港を支配下に。

1946年~1949年

中国本土で第二次国共内戦が起こり、毛沢東率いる共産党が勝利を収めた。内戦により再び香港へ難民が押し寄せ、巨大なスラム街が生まれた。人口は月に10万人というペースで増加し、人々はあらゆる言語、方言、伝統を携えてきた。1945年には60万人だった香港の人口は、1956年には250万人に膨れ上がった。

1950年代

製造業の中心地として香港の経済は急成長し、人々の生活水準も向上したが、増え続ける人口の間で賃金格差が生まれ、粗悪な労働条件も重なって社会に不安が広がっていった。

1960年代

暴動や騒乱、社会不安が続き、これに加えて干ばつや台風などの自然災害にも見舞われた10年間だった。その結果、政府は野心的な社会改革を実行し、公職者の汚職を取り締まり、教育の機会を広げた。急速に多様化が進む社会において、暴動は人々の間に社会的結束を生んだ。

1970年代

香港は、国際金融の中心地として「アジアの虎」と呼ばれるようになった。毛沢東の後を継いだ穏健派のトウ小平は、「改革開放」政策を取り入れた。99年間の新界租借期間満了を見据えた英国は、租借の継続をトウ小平へ打診した。トウ小平は、最終的な決断を保留したまま、香港の特殊性については認めていた。裏で、英国は香港からの撤退計画を立て始めていた。

1984年

英国のマーガレット・サッチャー首相と中国の趙紫陽首相は、香港の将来に関する中英共同声明に署名し、1997年7月1日をもって香港は中国に返還されると宣言した。中国は、香港に「高度な自治」権を与えることを約束し、香港は2007年までに直接選挙に移行するとした。政府は、中国の「一国二制度」政策を反映した香港基本法の作成に取り掛かったが、香港市民は自分たちが交渉に含められていないことに不安を抱き始めた。

1989年

北京で起きた天安門事件に対し、香港で100万人以上が抗議集会を開いた。香港市民の間で、中国支配に戻ることへの不安が高まり、共産主義への反感が増大した。

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