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北方領土問題の前に押さえておきたいロシア史~領土拡張の歴史的習性

9/5(木) 12:12配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

真意が見えにくい国。
北方領土を巡る日露交渉が続く中、ロシアに対して、そうした印象を持つ人も多いのではないか。
ロシアとはいかなる国なのか。
地政学の視点から探っていく。

宇山卓栄(著述家)
昭和50年(1975)、大阪府生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、現在にいたる。テレビ、ラジオ、 雑誌など各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説している。著書に『「民族」で読み解く世界史』『「王室」で読み解く世界史』などがある。

大いなる海へ

ロシアは内陸国家(ランド・パワー)である。そのため、常に海への出口を獲得しようとする。ロシアが2014年、クリミア半島を併合し、黒海への出口を得たことも、こうした歴史的習性によるものだ。

海への出口は軍事的な拠点であるばかりでなく、経済的にも重要な海洋交易の拠点となる。ロシアはモスクワ大公国以来、内陸にあり、海への出口を持っていなかった。

18世紀前半、ピョートル一世は北方のバルト海へと進出しようとするが、既にバルト海の覇権はスウェーデンによって、押さえられていた。そのため、スウェーデンと戦う(北方戦争)。この戦争はロシアの命運を決する総力戦となった。1721年、遂に勝利したロシアはバルト海に進出し、その沿岸に新首都ペテルブルクを建設した。

ピョートル一世が北部のバルト海方面へ領土を拡大したのに対し、18世紀後半、女帝エカチェリーナ二世は南部の黒海方面へと向かい、オスマン帝国からクリミア半島を奪う。そして、黒海の制海権を握った。

クリミア半島はロシアにとって、南の海への出口であり、欠かすことのできない重要な戦略拠点であることは、今も昔も変わらない。

こうして、バルト海と黒海を繋ぐ南北の物流動脈がロシア領内に形成され、交易が活発になって経済が躍進、国力を急速に増大させていく。

無念に散った祖父たち

19世紀前半、ロシアは海軍を整備し、植民地獲得に乗り出す。

ロシア海軍が本拠としていたバルト海沿岸のペテルブルク港は、冬に凍結してしまう。そこで、ロシアは不凍港を求め、クリミア半島のセヴァストポリに基地を建設し、黒海艦隊を編成した。

黒海艦隊の進出ルートは黒海→地中海→大西洋→インド方面となるが、このとき、ロシアはオスマン帝国領のボスフォラス・ダーダネルス海峡を、必ず通らなければならなかった。ロシアはオスマン帝国に「海峡開放」を要求する。

ロシアは、イギリスが支配していたインドなどのアジア諸国の植民地征服を狙っていた。こうした動きを警戒したイギリスは、ロシア艦隊を黒海に閉じ込めておくため、オスマン帝国に「海峡閉鎖」を要求する(次頁の図参照)。

海峡の通行権を巡り、イギリスとロシアとの間で紛争が半世紀間、続いた。この一連の紛争は東方問題と呼ばれる。

東方問題はイギリスとロシアの対立を軸としながら、他のヨーロッパ列強やオスマン帝国の周辺地域・国々を巻き込んで、複雑化していく。1853年のクリミア戦争や、1877年のロシア・トルコ戦争がその最たるものだ。

しかし死闘むなしく、遂にロシアは黒海から地中海へ抜けるルートを確保することはできなかった。

代わりに、シベリア鉄道の建設を進め、陸路を東進し、太平洋へと進出する新しいルートを開拓することになる。

ロシアが太平洋に到達すると、日本との衝突は避けられない。イギリスはロシアを牽制するため、日本と連携、1902年に日英同盟を締結した。そして、1904年、日露戦争が勃発し、ロシアは敗退する。

こうして、ロシアの野望は挫折した。その屈辱は今もなお、ロシア人の記憶に深く刻まれている。彼らは、自らの歴史に蓄積された怨念から目を逸らすことはできず、決して妥協しない。妥協は無念に散った父祖たちへの裏切りに他ならない。

2008年のグルジアへの侵攻、2014年のウクライナへの侵攻とクリミア併合、シリアや中央アジアの旧ソ連邦地域への介入など、今日のロシアの拡張は、歴史への逆襲と言える。そんな彼らが北方領土をどう捉えているか、我々日本人は今こそ、よく現実を見るべきだ。

宇山卓栄(著述家)

最終更新:9/5(木) 12:12
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