ここから本文です

製油所の400人の顔と名前を記憶 販売一筋だった出光社長が製造現場で学んだこと

9/5(木) 6:15配信

NIKKEI STYLE

《連載》私の課長時代 出光興産 木藤俊一社長(下)

販売畑一筋だった出光興産の木藤俊一社長(63)は1997年、製造現場勤務を命じられた。

製油所の人事課長に就きました。最初は驚きましたが、本能的にいい経験ができると思いましたね。人事の仕事は製油所で勤務する、約400人の名前と顔を覚えなければ始まりません。スポーツ大会など様々な行事を企画したり、毎晩社員と飲みに行ったりするなど、支店時代から生活はガラリと変わりました。

一方、技術畑ではないために製造現場の仕事はよく分からない。苦労もありましたが、製油所の所長がユニークな人で、私のような事務系にも分かる技術講座などを頻繁に開いてくれました。それまでと違う経験ができたことへの感謝は今もあります。

■販売の現場に復帰する

石油製品の輸入自由化などで、石油産業はどんどん厳しくなっていた時代でした。生意気にも本社に行くたびに「この激動の時こそ、私を販売に戻してください」と主張していました。簡単に希望が通るとは思っていませんでしたが、99年に本社の販売部企画課長に就くことになります。

当時は大部分をガソリン販売に頼っていました。いかにガソリンで利益を確保するか。社内では連日、製造担当や需給担当と喧々囂々(けんけんごうごう)の議論が続きました。苦しい状況は業界共通です。競合は人員削減などリストラ策に踏み切る中、出光が選んだのは給与の3年間の減額。リストラ策を実施しない代わりに、当時の出光昭社長は「乏しきを皆で分かち合おう」と。

■上司が掛け合い、減給が終わる

減額が始まり2年が経過した頃です。何とか利益が出るようになり、それを新たな販売施策へ振り向ける案が浮上しました。ですが、社員の給与は減額が続いたまま。私はどうしても納得できず、「社員の気持ちも考えてください」と上司へ直接訴えました。

上司はすぐ社長の元へ行ってくれました。結論は「販促策は実施する。ただし、給与減額もこれで終了する」でした。たった2時間ほどの出来事でしたが、会社全体が苦しかった時代のこの決断は私の中で今でも強く印象に残っています。

市場が縮小する中、苦しいことも多く経験しました。苦しい時ほど下を向きがちになりますが、常に「誠実さや粘り強さを持って明るく周囲をリードする」ことを意識してきました。その上で部下を信頼して仕事を任せ、最後は自分が責任を取るというのが、課長時代からの経験で培った私のスタイルになりました。

あのころ

石油製品の輸入自由化など規制緩和による競争激化は石油業界に再編を迫った。2000年前後に日本石油と三菱石油、東燃とゼネラル石油の合併が相次ぎ実現。だが、ガソリン需要が減少する中で根本的な解決策とはならず、00年代以降も価格競争による冬の時代は続いた。

[日本経済新聞朝刊 2019年8月27日付]

最終更新:9/27(金) 14:48
NIKKEI STYLE

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事