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村上春樹編訳・米短編の名手の晩年の風景【与那原恵氏書評】

9/7(土) 7:00配信

NEWS ポストセブン

【書評】『ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集』/村上春樹・編訳/中央公論新社/1700円+税
【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)

 スコット・フィッツジェラルドがその生涯に発表した長編小説は四冊で、『グレート・ギャツビー』(一九二五年)は三作目だった。二十八歳にして代表作を刊行したが、売れ行きは芳しくなく、アメリカ文学を代表する作品と位置付けられるのは没後である。

 二〇〇六年に村上春樹訳『グレート・ギャツビー』が出て、光や闇や色彩描写の見事さ、人物造型、言葉の一つひとつに魅せられた。

 フィッツジェラルドは、一九二〇年代の狂騒の時代に登場し、妻のゼルダとともに華々しいエピソードをふりまいた。だが二九年の世界大恐慌と同時期、フィッツジェラルドの実生活の勢いもしぼんでいった。三〇年代になると、ゼルダが精神を病み、彼は酒におぼれ、執筆もはかどらなくなった。

 それでもフィッツジェラルドは、多くの短編を執筆し、長編(完成をみなかった『ラスト・タイクーン』)にも取り組んだ。そして四〇年、四十四歳で世を去ってしまう。本書は、「晩年」にあたる時期の作品を村上が編訳した一冊だ。

 旅にも、社交にも飽いたカップルを包む不穏な空気(「異国の旅人」)。アルコール依存症の医師が暮らす田舎町に竜巻が襲った日(「風の中の家族」)。ある種のおかしみが漂う借金生活(「フィネガンの借金」)など、フィッツジェラルド自身を思わせるが、重苦しいわけではない。村上は、薄暗い時代に生み出された作品群であっても〈しかしそこには、深い絶望をくぐり抜けようとする、そして微かな光明をなんとかつかみ取ろうとする前向きな意志が垣間見える〉と述べている。

 エッセイ「私の失われた都市」の一節。〈ある日の午後タクシーに乗って、藤色とバラ色に染まった空の下、高層ビルの間を抜けていたときのことだ。私はわあわあ泣き出した。なぜなら私はほしいものを残らず手に入れていたし、これほど幸福になることはもう二度とないだろうとわかったからだ〉。絶頂期に見た夕刻の空。若き作家は自分の未来を悟りながらも、作家の歩みを止めなかった。

※週刊ポスト2019年9月13日号

最終更新:9/7(土) 7:00
NEWS ポストセブン

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