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借金返済のためプロ野球に「転職」。 酒豪打者・永淵洋三の数奇な人生

9/8(日) 6:37配信

webスポルティーバ

「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第4回 永淵洋三・前編

 平成の世にあっても、どこかセピア色に映っていた「昭和」。まして元号が令和になったいま、昭和は遠い過去になろうとしている。だが、その時代のプロ野球には魅力的な選手たちがたくさんいて、ファンを楽しませていた。

魚屋で働き、ストリップ劇場の草野球チームで投げていた「プロ野球の大エース」

 過去の貴重なインタビュー素材を発掘し、個性あふれる「昭和プロ野球人」の真髄に迫るシリーズ。漫画『あぶさん』のモデルのひとりであり、"酒豪打者"として知られる永淵洋三さんからは、今の常識では考えられないような驚くべきエピソードの数々が語られていた。





* * *

 JR佐賀駅から乗ったタクシーの運転手は、「あぶさん」という店名も、永淵洋三さんのことも心得ていた。2013年9月、僕はその野球人の店を訪ねた。

 永淵さんは1942年に佐賀に生まれ、佐賀高(現・佐賀西高)では左腕エース。卒業後は社会人の東芝で7年間プレーし、68年、ドラフト2位で近鉄に入団すると左の強打者として活躍。12年間で現役を退いたあと、地元で『やきとり あぶさん』を営んでいる(※2018年に閉店)。

 5分も乗らないうちに車は店の前に横付けされ、約束の12時より15分も早く着いたが、店舗に隣接した家屋の前で永淵さんが出迎えてくれた。選手時代の写真で最も印象的な大きい目の鋭さは眼鏡にかくれ、強気で豪気だったという性格も想像がつかない。

「開幕の頃はしょっちゅう取材受けましたよ。大谷のことでね。いや、ここまでわざわざ来た人は1人、2人、ほとんど電話です。今でもたまにかかってきますよ」

細長いカウンターの店内の奥、座敷席に高い声が響いた。日本ハムの大谷翔平が〈二刀流ルーキー〉として話題になるなか、永淵さんの名前が新聞紙上にしばしば登場、記事にコメントが載るようになった。永淵さん自身、当時の近鉄監督だった三原脩の方針のもと、プロ1年目に投手と野手両方でプレーしているのだ。

 僕はその詳細を把握せずにいたが、2013年3月29日、投手登録ながら、高校出1年目ながら、大谷が8番・ライトで先発デビューした西武との開幕戦。その姿を一塁側スタンドで目撃した者として、45年前の、元祖〈二刀流ルーキー〉の全貌を知りたくなった。イニング間のキャッチボールでライトからこちらに向かってくる大谷の投球に見とれ、「二刀流なら、この後の登板もあるか」と実感したことも、会いに行くきっかけになった。

「ノンプロで最後のとき、『ピッチャー足らん』ということでね。それまで僕は毎日、バッティングピッチャーやってたもんで、肩、強くなって体力もついてるから、ピッチャーとバッター、両方やってたんですよ」

 社会人時代の最終年も「二刀流」だったという永淵さん。身長168センチでは対象にならないと、当初はプロを意識していなかったが、長嶋茂雄と王貞治を見て考えが変わった。

「会社の近くに川崎球場があって、ちょいちょい試合を見に行ってたとき、ちょうど長嶋さんと王さんが人気絶頂でね。プロでやりたいなっていう気になってきたんです」

 さらに1963年、同じノンプロの黒江透修(くろえ ゆきのぶ)が永淵さんのモチベーションを上げる。ある試合で「打球が速い。この人はちょっと違う」と感じた黒江が、翌年、巨人に入団。自分と同じように小柄な選手(黒江は身長165センチ)がプロに入ったことで「俺もできるんじゃないか」という気になった。

「ノンプロですけど、成績は残してました。でも全然、プロから話は来ない。そこで入社5年目、どうしてもプロ野球でやりたくてね、テストを受けようと思ったんです」

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最終更新:9/8(日) 6:37
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