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山本浩二&衣笠祥雄「“YK砲”が振り返る昭和の広島黄金時代」/プロ野球20世紀の男たち

9/12(木) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

【平成広島年代記】低迷期を乗り越え築き上げた黄金時代

初優勝までの道のり

 セ・リーグとパ・リーグの2リーグ制となった1950年に市民球団として参入を果たした広島。だが、当初から市民の募金が重要な収入源という資金難に苦しむ。資金がなければ有力な選手も集められない。そして、2年連続で最下位という、どん底からのスタート。強くなるのにも長い時間が必要だった。

「僕が入ったころは、まだ目的が明確ではなかった。勝ちたいというのはあったと思いますが、1度も優勝したことがなかったですから、現実的じゃなかったんですね」

 と振り返るのは、65年に入団した衣笠祥雄だ。京都の平安高で捕手として春夏連続で甲子園に出場。プロも捕手としてスタートした。だが、

「最初の2年は、言われたことを、そのままやっていただけですね。自分で考え、踏み出したのは3年目、根本(陸夫)さんがコーチでいらしてからです。キャッチャーも、もうやらなくていいから、と言われてクビになりました」

 根本は68年に監督となり、衣笠を一塁のレギュラーに据える。そして、広島を初のAクラスに導くと、その秋のドラフト1位で、地元の広島で生まれ育ち、法大で活躍していたスラッガーを獲得。山本浩二(当時は浩司)だ。

「根っからのカープファンだったね。試合の中継も、いつもラジオで聴いていた。子どものころは市民球場じゃなくて、県営グラウンド。五日市から電車を乗り継ぎ、太田川放水路を渡り船で通ったのを思えている」

 と山本は振り返る。2人は同い年で、山本も1年目から外野のレギュラーとなり、衣笠が五番、山本が六番と並ぶことが多かった。山本が最初に与えられた背番号は27。衣笠が28で、人気マンガ『鉄人28号』にちなんで“鉄人”と呼ばれるように。衣笠が正真正銘、世界に君臨する“鉄人”への道を歩み始めたのは70年10月19日の巨人戦(後楽園)。この試合は途中出場で、唯一の打席では空振り三振に倒れたが、以降、現役引退まで1試合も欠場していない。6年連続を含む8度の全試合出場もある山本は、

「衣笠という、よき“お手本”がいた。彼が全試合出場を続けていたからね。いなかったら休んだかもしれん。人間って、(故障で)一度でも休むと、それが治って復帰しても、また同じような痛みになったら必ず休む。心の弱さだよね」

 一方の衣笠も振り返る。

「浩二も腰が悪くて、それでも同じように出ていましたからね。2人でチームを引っ張らなければいけないと思っていた。われわれには、いい“お手本”があったんですよ。王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんです。あの2人が巨人のV9を引っ張るのを見て、われわれは育ったわけです」

 そのV9が途切れたのが74年。チームカラーにプロ野球で初めて赤を採用した広島が初優勝を果たしたのは、翌75年のことだった。

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最終更新:9/12(木) 11:08
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