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消えた「三原じゅん子参院議員」の初入閣 カメラマン暴行事件がネックになった?

9/12(木) 17:31配信

デイリー新潮

 9月11日に行われた内閣改造人事で、当初初入閣の方向で調整・・と報じられた三原じゅん子参議院議員(54)の名はなかった。一説には、入閣候補議員に行われる“身体検査”で引っ掛ったなんていう声も出ているが、真相ははっきりしない。

 せっかくなので、改めて、彼女の来し方を振り返ってみよう。

 ***

〈昭和39年9月13日、私は東京都板橋区にある都立豊島病院で生まれました。赤ちゃんの時の私って、とにかく小っちゃかったそうなの。顔も小っちゃくて、とても可愛かったんですって。〉(註:以下、引用に関しては改行を省略)

 とは、1980年に出版された三原の処女作「片恋いのラブレター あなたに伝えたい」(KKベストセラーズ)の本文冒頭である。この前年、「3年B組金八先生」(TBS)の第1シリーズに、山田麗子役で出演したのが彼女だった。茶髪の聖子ちゃんカット、ロングスカートの制服に腕まくりという、ツッパリを演じて人気者に。リンチシーンにおける「顔はやばいよ、ボディーをやんな、ボディーを!」のセリフは、今でも語り種(ぐさ)となっている。その後、アイドルとなっても、ツッパリ路線を貫いていく。

 だから、この著書も他のアイドル本とはちょっと様子が異なる。小学校時代は〈人見知りな女の子〉である反面、〈とにかく喧嘩っ早い女の子で有名〉だったそうで、その暴れん坊ぶりときたら〈小学校4年になった時には、女の子では私に逆らう子は1人もいなくなったほどです。私がみんなを従えて、1日1人の割で男の子を殴って泣かしてた〉という。小学生のときから山田麗子だったのだ。

 その後、私立中学へ入学したが、芸能活動が認められていなかったために区立中学へ。

山田麗子そのもの

〈初めて近所の学校へ通うことになったんですけど、みんな顔見知りの子でも、私は生意気だって嫌われていたから、友達なんか1年間ぐらい出来なかったの。(中略)転校して、友達もいないし、一人ぼっちで、真面目でいるっていうことは、私にとってちょっときつかったの。〈もういいや、ツッパってやろう〉そう思ったの。志村一中は、真面目な子ばっかりだったから、すごく目立ってた……。スカートを長くして、カバンはペッタンコ。授業中も腕組んで、足組んで、ふんぞり返って聞いてたの。言ってみれば、『金八先生』の山田麗子みたいな感じでした〉

 高校は、都立代々木高校を受験するも不合格。明大付属中野高校定時制に入学した。ちょうど、その頃に書かれたのがこの著書で、〈今は高校を何としてでも卒業したいと思っています。試験にはカンニングがつきもの。絶対に卒業したい! こんなこと書いちゃいけないかな。でも、先生が読むわけでもないもの、いいんじゃないかしら。それに、もし読んだって、笑ってみのがしてくれますよね、先生!?〉とあるのだか、結局、退学したようだ。

 80年9月、「セクシー・ナイト」で歌手デビューを果たす。他のアイドルと一線を画す雰囲気は“ポスト百恵ちゃん”と呼ばれ、デビューシングルは30万枚以上を売り上げた。

 ところが、その後、彼女の話題は、男が中心となっていくのだ。出演した「ザ・ベストテン」(TBS)で、“恋人がいる”宣言。12月には“ケーキ屋ケンちゃん”こと宮脇康之との交際宣言をするものの、長くは続かず破局。

 続いて「金八先生」第2シリーズの不良役(松浦悟)を演じて人気となった沖田浩之、さらに巨人軍の水野雄仁選手とも浮き名を流し、10代にして“恋多き女”の称号を得た。ただし、宮脇と沖田について彼女は後に「男女の関係はなかった」と言っている。

 そして、この次がミュージシャンの立川利明だ。87年4月2日未明、豊島区の路上で2人してタクシーを降車したところを、写真誌「FRIDAY」が激写。これに激昂した2人は、

〈「フィルムを出せ」といい、ひざげりをするなどして乱暴。さらに三原は今井さんがカメラを抱えて路上にうずくまっているところへ、馬乗りになり、髪の毛をつかんで頭を路上に打ちつけた。2人のカメラマンは約1週間のけが〉(朝日新聞夕刊87年4月2日付)

「女性自身」は、より詳細に伝えている。

〈……奪ったカメラを路上に叩きつけ、止めに入った同行の佐藤龍カメラマンにも殴りかかり、フィルムを抜き取るなど、かなり酒に酔っていたとはいえ、したい放題の暴力行為。揚句の果てにかけつけた目白署員に、現行犯逮捕されたという次第だ。まだ寝静まった早朝、逃げまどうカメラマンを追いかけ30分にも及ぶ大立ち回り。「何人かもみ合って争っているし、大声で“てめえなんかぶっ殺してやる”と叫んでました。女の声でしたが、あれが三原じゅん子だなんて!?」「女の声でした。“てめえに写真撮られたから商売メチャメチャになった”って、確かにそう言ってました」などと半分冗談にしても、かなり迫力ある目撃談が次から次へと出てくるほど。“ツッパリじゅん子の面目躍如と言ったところ……〉(「女性自身」87年4月21日号)

 カメラマンへの暴行は、ボディどころではなかったようだ。ビートたけしによる“FRIDAY襲撃事件”がこの前年12月に起きたばかり。三原センセイ、当時から時流に乗ることに長けていたのかもしれない。ちなみに、この時2人は現行犯で逮捕され、書類送検(後に起訴猶予)されている。

 その後、三原は立川と結婚宣言までしたものの破局。次のお相手として写真誌「FLASH」(89年3月7日号)が報じたのが、「三原じゅん子&マイケル富岡、熱愛デートの現場!」だった。

 だが、翌90年10月25日に、三原はレーサーの松永雅博との婚約、さらに妊娠2カ月であることを発表する。当時を知る芸能記者は言う。

「三原は87年頃からカーレースに夢中になっており、婚約発表の半年ほど前にレースでコンビを組んだのが出会いのきっかけでした。デキ婚となるはずでしたが、この発表の2日後に流産してしまいます。11月5日に入籍するのですが、その3日後に行われたレースで、彼女は激突事故を起こし、左の肋骨を折り、左肩甲骨にヒビが入る全治1カ月のケガを負います。まさにレースのように目まぐるしい結婚生活となりました。しかし、レーサー夫婦の生活は大変だったのかもしれません。彼女もスポンサー集めに苦労していると語ったことがありますし、94年には荒木経惟氏撮影のヘアヌード写真集『Junco』(KKベストセラーズ)も発売します。91年に始まったヘアヌードブームからはちょっと遅れますが、その頃まだ新婚でしたからね。結局、この夫婦は、99年に離婚することになるのですが……」

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最終更新:9/13(金) 11:05
デイリー新潮

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