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「薙刀」の使い手・武蔵坊弁慶と女武者・巴御前

9/13(金) 12:13配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

たった一つの武器の誕生が、日本の歴史を大きく変えた!

山田勝監修 『武器で読み解く日本史 』(PHP文庫)では、古代の弓・矛・剣から、近代の戦車・戦闘機まで、日本史に登場する武器・兵器が、いつどのように生まれ、時代にどのような影響を及ぼしたかを解説しています。本稿では、その一部を抜粋編集し、「武器」という視点から日本史を見直します。

今回は、武士の台頭とともに登場し、南北朝時代までの小規模の集団戦で使われた武器「薙刀」を紹介します。

衣川の戦いで立ち往生した弁慶

戦場での薙刀は、斬る、突く、薙ぐ、払い上げる、石突で打つなど多彩な攻撃方法があって重宝されたと考えられる。石突とは、棒状の武器における地面に突き立てる部位の呼称だ。

多様な使い方ができることから、薙刀は剣、槍、棒を兼ねた武器ともいわれる。上下左右どこからでも攻撃することができ、握る場所を変えることで長短を変化させることもできるなど、その自在性は戦場できわめて有利に働いたと考えられている。

薙刀の使い手としては、源義経の従者である武蔵坊弁慶を思い浮かべる人も多いかもしれない。軍記物の『義経記 』によれば、1189年、源頼朝 の圧力に屈した藤原泰衡が多数の兵で義経のいる衣川館を襲った際、弁慶は義経を守って建物の入口に立ちはだかり、薙刀を振るって戦ったという。

だが、衆寡敵せず、敵陣から放たれた無数の矢を全身に受け、立ったまま絶命。その勇猛かつ凄惨な死に方は、「弁慶の立ち往生」と呼ばれて語り草となった。『義経記』は作者不詳であり、創作の部分も多いとされる。つまり、弁慶が薙刀を振るって奮戦したというのは史実かどうかはわからない。

鎌倉時代に成立した史書の『吾妻鏡』においては、武蔵坊弁慶は義経の従者のひとりとして名前があるだけで、来歴やその最期については、まったく触れられていない。これは、同時代の軍記物『平家物語』でも同様である。

もっとも、都落ちした義経を比叡山の僧兵たちが庇護したというのは史実であるらしい。そして、僧兵たちは薙刀で武装していた。鎌倉時代の絵巻物である『天狗草紙 』には、僧兵たちが「白五条( 袈裟の一種)を頭に巻き、僧衣に高足駄の男が薙刀を持つ」と記されている。現代のわれわれが想像する「僧形の弁慶が薙刀を持っている姿」と変わりない。

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最終更新:9/13(金) 12:35
PHP Online 衆知(歴史街道)

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