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『空と海のあわいに』第2話の(2)

9/13(金) 21:41配信

GQ JAPAN

第2話の主人公の紬(つむぎ)はヘッドハンター。ある夜、クライアントとの会食のため、広尾へ向かった──毎週金曜日に更新!

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既婚者のイメージ

ボッテガは広尾商店街のはずれにあった。少し手前でタクシーを降り、歩いて店に入ると、クライアントの永島と秘書はもう席についていた。

永島とは前職の時からやり取りがあって、紬が独立してからも何かと気にかけてくれる。かつての上司が彼とアメフトのチームメイトだった。彼らには体育会特有の面倒見の良さがあった。それに甘えている自分を情けなく思ったりもしたが、いくつかの結果を重ねているうちに、引け目はなくなった。今回の案件は引き抜きに近い形で、永島サイドにとっては願ってもない人材だった。

まずはドサージュ・ゼロのフランチャコルタで乾杯をする。暑い夏だった。この日はことさら湿度の高い夜で、すっきりとした味わいが心地よい。人気メニューの「トリッパ、ギアラ、小腸の煮込み」やブッラータチーズでそれを楽しんだ。

カウンターにテーブルが二つ。こぢんまりとした店はたいてい満席である。カウンターには人気上昇中の作曲家がいた。

あっという間にフランチャコルタのボトルは空き、永島は「サマートリュフのタヤリン」に合わせて、ガリアッソ・マリオのバローロ リゼルヴァ 2010を注文した。タヤリンが見えなくなるほどサマートリュフが削られ、辺りにはトリュフの香りが充満した。永島は落語の古典を引き合いに出し、その香りの気高さを褒めた。うなぎ屋の隣に住んでいる主人公が、漂ってくる匂いをおかずに白飯を食べていたら匂いの料金を請求された、という物語だ。

「この香りだけでワインを一、二杯はいけるんじゃないかなあ。サマートリュフってあっさりしたものが多いけれど、ここのはちょっと違うでしょう」

そういって、ほんの少し注がれた赤い液体を含み、ソムリエの女性に向かってもっともらしく頷いた。ソムリエは無表情のまま、黙って赤ワインをそれぞれのグラスに注ぎ始めた。

今年の春から永島についている秘書の女性とは、こうして食事を共にするのは二度目だった。会話の流れで紬が既婚者だと知って驚いたようだ。

「私、すっかりシングルを通していらっしゃるのかと思ってました。どうしてなんでしょう…」

永島がフォークに手を伸ばしながらいった。

「もしかすると、あなたの奥さん像というか既婚者のイメージが意外と古くさいんじゃないかな」

「ああ、そうかもしれません。こちらに来るまでにいた会社は保守的な社風でしたから。もちろん結婚した女性がみなさん仕事やめていたわけではないんですけど、第一線で輝いていらっしゃる方々は結婚には興味ないって思い込みがちょっとありますね」

「う~ん。輝いているっていう形容、僕は個人的にあんまり好きじゃないな」

「え? ダメでしょうか?」

「なんか、うそっぽいじゃない」

紬も永島のいう通りだと思ったけれど、口には出さなかった。ワインに心を奪われているふりをする。というか、実際に思い切り堪能していた。

トリュフの香りとワインの香りが自分の感覚の中で溶け合っていく。土の匂い、森の匂い、雨の匂い、潮の匂い、さまざまな自然なものの匂いが一つになって妖気を漂わせている、といったらいいだろうか。

「ご主人とはどうしてお知り合いになったんですか?」

そう聞かれ、紬はさりげなく「ご主人」という言葉遣いを直し、かいつまんで馴れ初めを話した。

「旅行先のニューヨークで。私のパートナーはその時、ニューヨークでコンサルタントとして働いていたんですよ。たまたま東京の会社から誘われている時期で、日本のことをいろいろ聞きたいって現地の友人に紹介されて。彼は香港出身で、高校と大学をロンドンで過ごしたんです。そろそろアジアのどこかで仕事したいと思っていた時だったそうで。まあ、付き合い始めたのは彼が東京に来てから一年後ですけどね」

ブライアンのことを話す時、いつの間にか慎重に言葉を選ぶようになった。いい方一つ間違えると、自分たちのことがまったく別のストーリーにされるような気がする。

話題は当然のことながら、日本でも頻繁に報道されているデモのことになった。香港では毎日、香港政府が出した「逃亡犯条例」に反対する大規模なデモが起きている。撤回を宣言してもなお、抗議の声は止まない。

永島も秘書も、デモを支持し中国政府を批判するのだけれど、彼ら彼女らにとっては他人事でしかない。仕方のないことだけれど。じゃあ自分はどうなのかと考えてみると、結局、紬にとっても切実なこととはいえないのだった。ブライアンの友人の多くはデモに参加しているようだし、家族は外出もままならないという。そういったことを聞く度に胸が痛くなるのだけれど、彼の不安や怒りを共有できていないことを痛感する。

デザートの代わりにチーズをいくつか楽しんでお開きになった。ほど近くのマンションまで歩いて帰った。相変わらず、夜の空気は湿度を含んでいてたくさん汗をかいた。帰宅したのは午後十時半だった。ブライアンはまだ帰っていなかった。時差のある仕事をしているので、帰宅が深夜や明け方になるのがしょっちゅうだった。キングサイズのベッドはシモンズ。一人で眠ることにすっかり慣れている。

眠気があるのに、眠れない。メラトニン5グラムを1錠飲んでもなかなか寝付けなくて、もう1錠追加した。それでも睡眠は途切れ途切れだった。

つづく

PROFILE
甘糟りり子
神奈川県生まれ。作家。大学卒業後、アパレルメーカー勤務を経て執筆活動を開始。小説のほか、ファッション、映画などのエッセイを綴る。著書は『産まなくても、産めなくても』(講談社文庫)『鎌倉の家』(河出書房新社)など。

文・甘糟りり子

最終更新:9/13(金) 21:41
GQ JAPAN

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