ここから本文です

川上哲治「“打撃の神様”が『ボールが止まって見える』まで」/プロ野球20世紀の男たち

9/14(土) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

【プロ野球仰天伝説】打席に入ると絶対に外さなかった“打撃の神様”川上哲治

「もう1人の川上哲治が……」

 プロ野球の公式戦よりも長い歴史を誇る巨人だったが、戦後の初優勝は1949年。そのオフは激動だった。21世紀には球界再編騒動もあったが、それ以上の激動だっただろう。翌50年の開幕に向けて、1リーグ制から2リーグ制へと移行。その混乱とは別に、巨人では三原修監督から水原茂監督へと体制が変わった。この経緯については、のちの機会に触れる。このとき、「優勝した監督を代えるのは、おかしい」と三原を擁護したのが、四番打者の川上哲治だった。特に“三原派”というわけではなかったが、このことで水原監督との関係が冷え込み、

「えらいスランプに陥ったんですよ。なかなか打てない上に、私は守備がヘタ、足も遅い。水原さんも『しっかりせいよ』と叱る。私のほうも、つい反抗的になる……」

 悪循環が生まれ、どんどん野球に集中できなくなっていった。そこから脱却するべく、50年の夏、二軍の選手に頼み込んで、多摩川のグラウンドで、とことん打ち込みをした。

「ずっと打ち続けるうちに球が止まって見える境地になったんです。打つべきタイミングがピタッとハマったとき、動いているはずの球が止まって見えた。仏教で同行二人という言葉がありますが、欲得のある生身の人間と、欲得の世界を超えた人間。その、もう1人の川上哲治が、球が止まって見える感覚をつかんだわけです」

 打撃投手の「もう300球も投げています。勘弁してください」という声で、ようやく我に返ったという。その異名は“打撃の神様”。プロ野球で初めて通算2000安打に到達した好打者だが、38年に巨人へ入団したときは投手だった。熊本工でバッテリーを組んだ吉原正喜と一緒に入団し、巨人でもバッテリーを組んだが、闘志あふれるプレーで司令塔に定着した吉原の一方で、早々に挫折する。当時は春季と秋季の2シーズン制。その合間の北海道への遠征で、

「青函連絡船の中で、藤本(藤本定義)監督から『ファーストミットを用意しておけ』と言われたときは、本当にうれしかったですね」

 41年までは一応“二刀流”を続けているが、39年に首位打者、打点王の打撃2冠。圧巻のスピードを誇る打球は“弾丸ライナー”と評され、打者として一気に開花した。

 42年オフに応召。戦後は熊本へ帰郷し、農業に打ち込む。両親や弟、妹の8人を食べさせていかなければならないこともあったが、凝り性を発揮して、農業にハマった。巨人からの復帰の誘いも、何度も断ったという。

1/2ページ

最終更新:9/14(土) 11:09
週刊ベースボールONLINE

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事