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関ヶ原の合戦、石田三成と直江兼続による「東西挟撃作戦」は史実なのか?

9/15(日) 9:10配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

激戦の末、裏切りで勝敗が決したとされる関ヶ原合戦は虚構だった? 一次史料をもとに最新研究が明らかにした天下分け目の真実とは?
小説やドラマなどで度々描かれ、よく知られている。が、それらの多くは後世に記された二次史料がもとであり、史実かどうかは疑わしい。
渡邊大門著『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書)では、同時代の一次史料をもとに関ヶ原合戦を再検証しているが、ここでは、その一部を抜粋し、石田三成と直江兼続による「東西挟撃作戦」の真偽について紹介する。

「東西挟撃作戦」はあったのか

慶長5年(1600)6月、上杉景勝は徳川家康からの上洛要請を拒絶し、対決が決定的になった。そして、いよいよ会津征討が敢行される。
こうした政治情勢のなかで、よく指摘されるのが、景勝と家臣の直江兼続が石田三成と事前に盟約を結んでおり、景勝の上洛拒絶から家康の会津征討の流れは、両者による「東西挟撃作戦」の一環だったという説(「事前盟約説」)である。景勝は無謀な戦いを決意したのではなく、計算ずくだったというものだ。
この説の根拠になっているのは、国枝清軒著『続武者物語』所収の(慶長5年)6月20日付石田三成書状(直江兼続宛)である。家康が伏見城を発ったのが6月18日だったので、絶妙なタイミングで送られた書状だった。次に、内容を現代語訳にして示しておこう。

先日、御細書(細かく内容を記した手紙)を預かり返事をいたしました。家康は一昨日の18日に伏見を出馬し、かねてからの作戦が思うとおりになり、天の与えた好機と満足に思っております。私も油断なく戦いの準備をいたしますので、来月初めに佐和山を出発し、大坂へと向います。毛利輝元・宇喜多秀家そのほかは、無二の味方です。会津方面の作戦を承りたく思います。中納言様(景勝)にも手紙を送っています。しかるべき御意を得るようお願いする次第です。

上記を見ればわかるとおり、家康を挑発して会津征討に向かわせるのは、以前から考えていた作戦であるというのである。兼続が家康を「直江状」で怒らせたのは作戦であり、家康がまんまと乗ってきたということになろう。一見すると、「さすが景勝!」といいたくなるが、この書状にはいくつかの疑問が寄せられている。

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最終更新:9/15(日) 9:10
PHP Online 衆知(歴史街道)

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