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女子バレー中田久美監督 ロス五輪は「屈辱の銅」だった

9/18(水) 9:52配信

日経ARIA

オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。

【関連画像】「女子バレーの伝統と栄光を引き継がなければならないし、金メダル以外は価値がない。中学3年、15歳で腹をくくりました」

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(下)「金」を諦めるつもりは毛頭ない

●わずか2年、最年少で全日本入りをした努力の鬼

―― 東京2020オリンピック大会の前哨戦ともいえるワールドカップ(W杯)が2019年9月14日に開幕しました。スポーツ界には「名選手は名監督にならず」という通説がありますが、これまでの指導力を見る限り中田久美監督にこの通説は当てはまりませんね。

中田久美さん(以下、敬称略) どうですかねえ……。名監督かどうかは東京2020オリンピック大会の結果次第ですし、そもそも私は自分が名選手だと思ったことはありません。15歳で全日本にデビューし、18歳で正セッターになったので世間からは「天才少女」と称されていましたが、天才だなんてとんでもない。どちらかと言えば、人一倍練習をこなしてきた努力タイプの人間です。ただ、チームの司令塔となるセッターとして一人前になるには、5年の歳月が必要といわれていましたけど、私はそれを2年間でやり切った。

 理由は簡単。誰よりも練習したからです。そしてただむやみやたらにトスを上げるのではなく、1球1球に意思を込めました。10万球トスを上げたとしたら、そこには10万通りの意思を込めた。そのため体以上に、脳に汗をかきましたね。

 オリンピック選手になりたいと思ったのは、小学校高学年。水泳選手として本気で目指そうと考えていたのですが現実は厳しく、中学入学と同時にバレーを始めました。そして中1の終わりごろ、1970年代にW杯や世界選手権などで日本に幾つもの金メダルをもたらし、圧倒的な指導力を誇っていた故・山田重雄監督が設立したジュニア養成機関「LAエンジェルス」の募集広告を見たんです。受かりっこないと思って応募したところ、なんと150倍の難関を突破。五輪に一縷(いちる)の望みをつなげることができたとうれしかったですね。

―― しかし、合格者は寮生活を強いられます。中学2年で親元を離れるのはつらくなかったですか。

中田 両親には大反対されました。私は一人娘なので、親にすればまだ手のかかる娘を手放すのは身を引き裂かれるような思いだったのかもしれません。母は心配していました。ただ、私は幼い頃から一人で考え行動するタイプだったので、頑として親の説得には耳を貸さなかった。

 しばらくして父にこう言われました。

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最終更新:9/18(水) 9:52
日経ARIA

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