ここから本文です

日本の山城:山岳部の地形を利用して築かれた土の防御施設

9/19(木) 11:31配信

nippon.com

中井 均

戦国時代において天守閣や石垣を備えた城が築かれた期間は短く、その大半は周囲の地形を利用した山城だった。不便な場所にあったため保存状態が良く、当時の遺構がそのままに残されている。

日本列島にはおおよそ3~4万もの城館跡が存在している。それらは14世紀前半から17世紀前半に築かれたものである。約300年間でこれほどの城館が築かれたことは世界史的に見ても異常な数で、日本の戦国時代は大築城時代であった。

日本の「お城」というと白亜の天守閣に高い石垣、満々と水をたたえた堀を多くの人はイメージするが、こうした形態は織田信長が1576(天正4) 年に安土城を築いて以後のものである。戦国時代の城郭は現代人がイメージする姿とはまったく異なるものであり、大半は山岳部の地形を利用して築かれた防御施設だった。

山を切り盛りして作られた土木施設

その形態は戦いに備えた最終地点の詰城(つめしろ)である「山城(やましろ)」と、普段生活する山麓の「居館(きょかん)」の二元的構造となる。つまり山城には住まなかったのである。越前の戦国大名朝倉氏の居館として有名な福井県の一乗谷朝倉氏遺跡は山麓の居館であり、その背後の城山の山頂に巨大な山城が構えられていた事実はあまり知られていない。

詰城である山城は、山を切り盛りして築かれている。山を削って「曲輪(くるわ)」と呼ばれる平たん面を造成し、尾根筋は巨大な包丁で切断したような「堀切(ほりきり)」を構え、曲輪造成や堀切で削り取った土で「土塁(どるい)」を築いている。まさに城という文字の通り、土から成るものであった。戦国時代の山城は建築施設ではなく、土木施設だったのである。

そうした山城の防御施設についてみておこう。曲輪は郭とも書き、兵の駐屯地として設けられた。そこには小規模な掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)(※1)が2~3棟建つのみである。この曲輪の周囲には土塁と呼ばれる土の壁が巡らされる。曲輪の先端部や隅部でこの土塁が幅広くなっているものはその上に櫓(やぐら)が構えられていた。もちろん櫓も近世城郭のように分厚い壁があって瓦がふかれた重層のものではなく、四本柱を組んだ「井楼櫓(せいろうやぐら)」と呼ばれる簡単なものであった。

堀切(地を掘って切り通した堀)は丘陵の先端に選地する山城の場合、背後の尾根筋からの攻撃を遮断するために設けられている。遮断線としての防御施設であり、単純に1本設ける場合が多いが、二重、三重、四重と多重に掘り切る場合もある。

もう一つ、戦国時代の山城の構造で見落としてはならない防御施設に「切岸(きりぎし)」がある。曲輪周囲の斜面地は自然の傾斜面ではなく、人工的に急斜面に削り込んだもので、これを切岸と呼んでいる。いかに敵を登らせなくするかを考えた防御施設である山城にあって、この切岸こそが曲輪、堀切、土塁よりも重要な施設だったのである。鹿児島県の知覧城や志布志城ではシラス台地をほぼ垂直に削り込んで切岸を造っている。その高さは20メートルを超え、とても登ることはできない。

(※1) 礎石を置かず、柱を直接地面に埋めて建てた建物。

1/3ページ

最終更新:9/19(木) 11:31
nippon.com

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事