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「お前、覚悟しておけよ!」田村優の“引退危機”を救った父の一喝

9/20(金) 21:46配信

FRIDAY

アジアで初めてとなるラグビーワールドカップが20日、味の素スタジアムで開幕した。記念すべき初戦で日本代表は硬さもあり、本来の力を出すまで時間がかかったが、ロシア代表を30―10と振り切った。苦心しながら試合を動かし、後半20分には40mを越えるPGを決めた背番号10、田村優の父・誠さんが息子の素顔を語った。

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「私は長い間ラグビーをプレーしてきましたが、優にも(弟の)煕(現・サントリー)にも『ラグビーをしなさい』と言ったことはなくて、蹴り方も教えたことはないんです。優が4、5歳の頃、ちょうどJリーグが開幕した時期でした。私はトヨタ自動車ラグビー部の監督をしていて、練習場に誰もいないときには、選手の息子さんと一緒にサッカーボールで遊んでいました」

田村は、岡崎市のFCマルヤス岡崎でサッカーをはじめ、中3までは攻撃的なMFの選手だった。父の知らないところで名古屋グランパスユースから声がかかるような選手だったが、優はサッカーで一流になることに限界を感じていた。中学3年の年末を迎えようとする頃、進路の話をしたときに、優の方から「ラグビーをやりたい。久我山でやりたい」と言い出した。

国学院久我山は誠さんの母校で、3年時に花園で準優勝している。しかし当時、田村家は愛知県内にあった。愛知県内にも西陵商業、明和、俳優・舘ひろしの母校、千種高校と強豪校がしのぎを削っており、どのチームにも可能性があった。より花園での全国大会に出られる可能性が高くなる進路を考えた。誠さんが続ける。

「久我山は親元からでないと通うことができない。ただ、国学院栃木の吉岡(肇)先生は私が久我山時代の同級生ですし、社会人までラグビーをやってその後、教員になった苦労人。預かってもらえるなら知っている人の方がいいと考えて、受験の準備をはじめました」

高校でラグビーをはじめる選手は少なかったが、その中で田村は親元を離れて初めて楕円球に触れた。学校生活になれてきた高校1年生のある日、授業中に立たされた。本当であればシュンとなるはずが、教室の角に大きなスクリーンがあり、そこの死角で立たされていた田村は弁当を食べていたという。吉岡監督は笑い話として父・誠さんに伝えたが、誠さんは授業をしている先生に対して失礼なことをしたことに我慢ならなかった。

「今から行くから、正座をして待ってろ」

息子にそう電話した誠さんは、吉岡監督の自宅続きで建てられた寮の一室に、わざわざ愛知から栃木まで5~6時間かけて車を走らせ、一喝。滞在時間は10分ほどだったが、どうしても顔を見て話しておきたかった。

「電話だったらその場で終わっちゃう。でも顔を合わせれば、(怒りの)真剣さって伝わるかなと思ったんです」

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最終更新:9/20(金) 22:11
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