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なぜ消滅した? 戦後人気を博した“鉄スクーター”の過酷な運命

9/20(金) 11:40配信

モーサイ

スクーター黄金期に現れ始めた“ほころび”

多くの都市が廃墟と化した敗戦から10年以上が経過した1950年代後半。
戦後ニッポンは著しい復興を遂げていたが、その時期に活躍していたバイクがラビットやシルバーピジョンに代表される“鉄スクーター”と呼ばれる車両たちだった。

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経済の成長は新たなスクーターの需要を生み、スクーターブームと言われるほどの繁栄期を迎えてゆくが、それは長く続かなかった。
いったいなぜ、国産スクーターは衰退し消滅することになったのか。その謎に迫ってみよう。

※本記事は別冊Motorcyclist2011年9月号に掲載されていたものを再編集しています。

戦後の発展とともに成長した国産スクーター市場

戦後、富士産業(旧中島飛行機)と三菱重工業の民需転換により誕生した、国産スクーターのラビットとシルバーピジョン。
高度経済成長の波に乗り爆発的な発展を遂げた国産スクーター市場は右肩上がりで成長を続け、シルバーピジョンは’58年に総生産台数6万8264台を記録。ラビットも翌’59年に、6万3274台を記録した。

もとは海外のスクーターを模倣することから始まり、簡易な移動および荷物運搬の手段として人気を博した国産スクーターはユーザーのニーズが反映されることにより、許可証があれば乗れる原付2種クラスと大型・豪華路線の軽二輪クラスという、ふたつの路線で独自の発展を遂げていた。

しかし、国産スクーターの絶頂期を迎えたと言える’58年。奇しくもその後のスクーターの行く末に多大な影響を与えることになる、2台の名車が発売された。

大衆向け自家用4輪車の象徴として、今日の軽自動車市場の基礎を作った富士重工業製「スバル360」。
そして、世界中で愛用されつつ今日まで発展を続け、2011年現在2輪車として世界一の生産台数を誇るスーパーカブシリーズの始祖、ホンダ「スーパーカブC100」である。

待ち望んでいた大衆車・スバル360の誕生

スバル360は、’55年に通産省(当時)が出した「国民車構想(国民車育成要綱案)」に基づき企画された1台で、’58年の5月から市販開始。
小さなボディに大人4人が乗れる優れたパッケージングと、限られた排気量ながら徹底した軽量化で十分な走行性能を備えていた。

発売当初は41万円と高価であったため、まだまだ庶民の手が届くものではなかったが、増産されるに従い価格は徐々に引き下げられ、’60年代には真の“大衆車”と呼べるまでに成長していった。

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最終更新:9/20(金) 11:40
モーサイ

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