ここから本文です

19世紀最高の女性ピアニスト、クララ・シューマンの生涯

9/20(金) 10:01配信

現代ビジネス

クララ・シューマン生誕200周年

 ドイツの通貨がユーロでなく、まだドイツマルクだった頃、100マルク紙幣の肖像はクララ・シューマンだった。クララはいうまでもなく、有名な作曲家ロベルト・シューマンの妻だ。今では、ロベルトの名ばかりが知られているが、クララは紛れもなく19世紀最高の女性ピアニストだった。

なんと子どもは20人!「音楽の父」バッハの意外な素顔

 今年はそのクララの生誕200周年なので、生誕地ライプツィヒでは、「CLARA19」という枠組みで年間を通して様々な催し物が開かれている。

 そのCLARA19のハイライトが、9月12日より29日の「クララ・シューマン祝祭週間」。クララの誕生日が1819年9月13日で、結婚記念日が1840年9月12日だったので、それに因んでこの時期なのだそうだ。

 初日12日のコンサートに行ってきた。演奏はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で、指揮は2018年に同楽団の常任指揮者に就任したアンドリス・ネルソンス。ラトビア出身だ。

 演目はフランス人作曲家ベッツィ・ジョラス(Besty Jolas)の新作「Letters from Bachville」(初演)、クララ作曲のピアノ協奏曲a-moll、そして、ロベルト・シューマンのシンフォニー第1番。

 最初の作品は、ゲヴァントハウス管弦楽団とボストン交響楽団がジョラスに依頼したもの。音楽の神様ともいえるヨハン・セバスチアン・バッハは、ライプツィヒのトーマス教会で25年も音楽監督を務めていたので、Bachvilleは紛れもなくライプツィヒのことだ。

 2曲目がいよいよ、この夜の聴衆が一番待ち望んでいたクララのピアノ協奏曲。クララはこれを15歳の時に書いた。だから作曲家の名前はクララ・シューマンではなく、クララ・ヴィークだ。

ゲーテも感嘆した才能

 クララの生涯は、最初から最後まで尋常ではなかった。

 5歳の頃、有名なピアニスト兼歌手だった母親が、離婚で家を出た。当時のしきたり通り、幼いクララと三人の弟が父親のもとに残された。一家はそれまで母親の収入で暮らしていたため、離婚後、父親はたちまち金欠となった。

 クララの音楽の才能を見抜いていた彼は、そこで、クララを第二のモーツァルトにしようと思いつく。神学を勉強した教養豊かな父親は、音楽への憧憬と情熱も深く、自分でも見事にピアノを弾いた。

 その彼がクララに特訓を施した。それもピアノ演奏だけでなく、当時の上流階級でぜひとも必要だった英語とフランス語も教え込み、体力増強のために毎日3時間の散歩もさせた。

 クララは父親の期待を裏切らず、9歳でゲヴァントハウス・ホールでデビューした。この時は、著名なピアニストのゲストとしてだったが、2年後には独自のリサイタルを開き、これを皮切りにヨーロッパ各地の宮廷で引っ張りだことなる。11歳のクララの演奏を聴いたゲーテは感嘆し、ショパンまでが「力強く、知的で、正確な演奏」と絶賛したというから、その才能は本物だったと思われる。

 ハプスブルクの皇帝はこの天才少女に、外国人、女性、プロテスタントで初めての「王室皇室内音楽奏者」の称号を与えた。コンサートでの暗譜演奏もクララが初めてだったため、彼女の名声に嫉妬した人たちが、「この子は譜が読めないのだろう」と悪口を言ったという。

 ロベルト・シューマンと知り合ったのは10歳のころで、ライプツィヒ大学で法律の勉強を終えたロベルトがピアニストになりたくて、クララの父親に弟子入りしたことがきっかけだった。クララがピアノ協奏曲を作曲したころ、二人はすでに恋愛関係にあったようだ。

 ただ、父親が交際にものすごく反対して、二人は次第に思うように会えなくなっていく。しかし、たとえ会えなくても、主題を交換して作曲し合ったり、お互いの作品を捧げ合ったりと、高度な音楽的交歓が続いた。誰にも代えられないものすごく強い結びつきだったと思われる。

1/2ページ

最終更新:9/20(金) 10:01
現代ビジネス

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事