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音楽と舞踊の本気のコラボレーション~Kバレエ・カンパニーと東京フィルによる「カルミナ・ブラーナ」

9/23(月) 8:10配信

otocoto

Bunkamura30周年を記念して上演されたKバレエ・カンパニーの新作「カルミナ・ブラーナ」(9月4、5日オーチャードホール)は、いつもの上演とは全く違い、オーケストラ・ピットにアンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルハーモニー交響楽団が入るという音楽と舞踊の“ガチ”のコラボレーションとなった。そのステージを振り返ってみる。

いつも、寂しく思っていた。
バレエの公演で、指揮者とオーケストラがどんなにいい演奏をして頑張っていても、バレエ・ファンは演奏のよしあし、楽曲の素晴らしさについて、ほとんど話題にしないのを。

それはある意味仕方のないことでもある。
バレエは視覚の芸術である。徹底的に、よく見ることによってのみ、鑑賞されうる。
バレエという芸術においては、音楽はよく躾けられた娘のように従順に、忠実に、舞踊に仕えなければいけないとされてきた。
振付家の、ダンサーの都合によって、バレエ音楽はカットや順序の入れ替えや編曲、接合部分の手直しなど、あらゆる改変を施されることも、しばしばだ。
そこでは、指揮者は執事のように振る舞わなければいけない。

ところが、今回の「カルミナ・ブラーナ」では、オペラやシンフォニーの世界で、強大なリーダーシップを発揮することで知られている、人気指揮者のアンドレア・バッティストーニ(1987年ヴェローナ生まれ)と東京フィルがピットに入った。
しかも、舞台上には新国立劇場合唱団をはじめとする大勢の歌手たちが乗って、ダンサーたちを取り囲むような配置のなかで、演技しながら歌ったのだ。

これは刺激的な体験だった。
ふだんは主役たる舞踊の前で、支える側に徹している音楽が、どんなにダンサーたちが熱く激しく踊ろうとも、一歩も引かずに、音楽本来のパワーを全開させて、堂々と互角に対抗したのだから。

ステージ上で起こっていたことを、たとえば、私はこう想像する。
いつものようにダンサーたちが踊ろうとすると、非凡きわまりないカウンターテナー(男の裏声アルト)の声で、藤木大地が歌う。あるいは与那城敬のバリトンの存在感が、今井実希のソプラノの高く舞い上がる風のような声が、そこにある。その生のヴォーカルのオーラは、直接ダンサーの肌にしみわたり、身体の奥で、何かが反応するのだ。

あるいは、新国立劇場合唱団の発する声の集合体。バッティストーニの指揮は、声の扱いが抜群にうまく、決して叫ばせすぎるようなことはなく、抑え気味だからこその濃い声の色が生きている場面が多かった。あの人数が舞台上で厳粛な声を発し、ダンサーを囲んで暗くうごめいている様子は、不気味なまでの存在感があった。

そもそも「カルミナ・ブラーナ」は、作曲家カール・オルフが中世の歌集写本のテキストから抜粋したものをもとに、20世紀の流儀で作曲したカンタータを1937年にドイツで舞踊付きで初演したもの。自然の中に生きる人々の恋や生命の喜びを歌い上げた歌の数々を、運命の女神フォルトゥーナが大きく外側から支配しているような楽曲構造となっている。

今回の熊川哲也の演出・振付・台本によるバージョンでは、そこに新たな物語が展開される。女神フォルトゥーナ(中村祥子)が悪魔ルシファーとの間に子を授かり、その子の名前はアドルフ(関野海斗)というのである。このアドルフは人間社会を堕落させ、悪を蔓延させるという話になっている。

この新しい視点からのバレエ「カルミナ・ブラーナ」は、とてもよく音楽と響き合っていた。楽曲中に出てくるユーモラスな「焼かれる白鳥の歌」では、「瀕死の白鳥」のパロディが出てきたのも、ウィットが効いていて面白かった。

アドルフとは、もちろん初演当時のドイツの社会状況を考えれば、ヒトラーのことと想像がつく。
だがこのアドルフの軽やかだが弱さも葛藤も感じさせる見事な踊りを観ていて思ったのは、彼は決して特別ではなく、むしろ私たちひとりひとりと同じような喜怒哀楽を持ち、疎外感を抱えた、平凡で孤独な、結局は何かに操られている普通の人間だったのかもしれない、ということだった。
今、ますます世界中で独裁や抑圧の動きが強くなっているこの時代、こうしたメッセージを伝える舞台を作ることは、とても意味深い。

客席は、バレエ・ファンと、音楽ファンが混ざった雰囲気となっていたのも良かった。同じ趣味のタイプのいつもの人たちばかりが集まるのではなく、こうしてかき混ぜることによって、劇場をめぐる空気は必ず活性化するのだから。

※9月4日所見

文・林田直樹

最終更新:9/23(月) 8:10
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