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海老名香葉子 100歳まで平和を訴え続ける決意の理由

9/23(月) 11:07配信

女性自身

8月31日、東京・浅草演芸ホールで行われた「第38回初代林家三平追善興行」。高座に上がる前の落語家たちが、楽屋を訪れては、誰もが親しみを込めて“おかみさん”と呼ぶ故・初代三平師匠夫人の海老名香葉子さん(85)に挨拶をしていく。落語ファン以外にも、エッセイストやコメンテーターとしてもおなじみの顔だ。

40人もの弟子たちのなかには、祖父の名跡を継いだ長男の九代正蔵さん(56)、次男の二代三平さん(48)に加え、正蔵さんの長男で、現在二ツ目を務めるたま平さん(25)の姿も。彼は、役者としてもラグビーチームの奮闘を描いた『ノーサイド・ゲーム』(TBS系)出演するなど人気急上昇中で、自慢の孫でもある。

楽屋の香葉子さんのかたわらでは、「昭和の爆笑王」と呼ばれた初代三平師匠の遺影が、弟子たちを温かいまなざしで見守っていた。夫亡きあとも、幾多の波乱を乗り越えながら、おかみさんとして、噺家の伝統を継ぐ家族と一門を束ねてきた。

同時に、自費をつぎ込んで東京大空襲の犠牲者の慰霊のための「時忘れじの集い」を始めるなど、戦争のない平和な社会の大切さを訴え続けてきた。それらすべての始まりは、幼い日の壮絶な戦争孤児体験にあった。

「子どものころは、いえ、今でも私はブスなんです(笑)。でも母だけが、『カヨちゃんは、不器量なんかじゃない。ほっぺのエクボは、あなただけのもの。だから、いつも笑顔でいなさい』と。それを支えに、今日までやってきました。その母も父も、長兄、次兄、弟も祖母も家族6人を、終戦の年('45年)の3月9日から10日にかけて、下町で10万人以上が亡くなったという東京大空襲で亡くしました」

1933年(昭和8年)10月6日、海老名香葉子さんは、東京は本所区竪川町(現・墨田区)に生まれた。父親は、釣り竿職人の名匠「竿忠」三代目の忠吉さん、母親はよしさんといい、5人きょうだいのただ一人の娘だった。

「B29による東京大空襲の猛火のなかを、母は弟を背負って逃げたそうです。家族6人はみな、遺骨も見つかりませんでした。私は沼津の叔母の家に疎開し、その後に石川県の穴水町へ行って生き残ることができました」

終戦から3カ月後、東京に戻った幼いカヨちゃんは、親戚宅をたらい回しにされる。

「戦争で、親戚の人も変わりましたね。大人も食べていけないなか、『お前みたいな子が生き残っちゃって』とまで言われて。焼け跡で、拾ったお鍋で雑草を煮て食べたり。よく生きていたと思います」

『ことしの牡丹はよい牡丹』('83年)や『うしろの正面だあれ』('85年)などのエッセイや講演で自身の孤児体験をつづりながら、平和の大切さを訴え続けてきた香葉子さん。

その思いが一つの形となったのが、'05年に上野公園内に建立された「時忘れじの塔」であり、3月9日に毎年行っている東京大空襲の犠牲者を慰霊する「時忘れじの集い」であった。

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最終更新:9/23(月) 11:24
女性自身

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