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鈴木武蔵の「134字」から考える、人種差別に私たちは何ができる?

10/15(火) 16:53配信

footballista

9月の日本代表合宿に選出された北海道コンサドーレ札幌のFW鈴木武蔵に対して、Twitter上で差別要素を伴う心ない言動が投稿された。これを知った鈴木武蔵が引用RTの形で言葉を綴ると、そのツイートは多くの称賛とともに拡散。発言者が「大分サポーター」と自ら定義していたことから、クラブが声明を出す事態に発展し、その経緯はニュースとしても扱われた。話題は過ぎ去り、終息したかに思われる一連の発展を眺めた一人として、今この話題に言及するのはなぜか。ここからできることはなんだろうか。

文 邨田直人

本当に「サッカーで見返すしかない」のか?

 「僕に報告してくれた方ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。サッカーで見返すしかないですからね。そうやって小さいころからやってきたので。お父さんの血がなかったら日本代表になれていなかったと思いますし、ハーフであること、日本という素晴らしい国で育ったことに感謝しています」

 力強い言葉だった。

 鈴木武蔵はジャマイカ人の父と日本人の母の間に生まれ、高校卒業後はアルビレックス新潟に入団。今季より北海道コンサドーレ札幌でプレーしており、3月には日本代表にも初選出された。そんな選手へ向けて「あの見た目で日本代表なんてインチキじゃない?」「代表から追放しなさい」という投稿が、彼が途中出場した9月10日のW杯のアジア2次予選・ミャンマー代表戦時、Twitter上でなされた。そのツイートに、引用RTの形で鈴木武蔵自身が残したのが上記の134字だ。

 代表にまで登り詰めた選手としてのプライドを正面きって文字にしただけでなく、行為を伝えた人への感謝を述べ、ポジティブな締めくくりで自らの出自と、ツイートを読んだ他者に配慮する、精神力の強さを感じさせる言葉だった。

 一方「サッカーで見返すしかない」という言葉は、一人の当事者の決意表明以上に、重要な意味のこもった言葉として読むことができる。つまり、「差別とは、差別されたものが乗り越えるべき苦痛だ」という認識が前提になっているのではないか、ということだ。

 こうした差別行為があった場合、本来問われるべきは差別した側の非であり、被害を受けた側への配慮だ。意図的に向けられた言葉の刃だったかもしれない。それが差別だと知らないで使った、無知からくるものだったかもしれない。だがその区別は、行為によって傷ついた人の前ではなんの留保にもならない。

 鈴木武蔵の言葉からわかるのは、差別はそれを受けた側が、自分の能力で乗り越えるしかないと思わされてしまっている、いわば“逆転現象”が起きていることである。また「そうやって小さいころからやってきた」という言葉にあるように、その認識がこれまでの生活の中で培われた、個人間のやりとりよりもより範囲の広い社会の中で形成されたものであることを感じさせる。SNS上の一つのつぶやきが発端になったとはいえ、この差別的言動は今この瞬間だけの問題ではなく、より長い時間の幅の中で捉えられる。

 発言したものは一瞬でそれを忘れ去ることができるが、されたものは長い時間をかけて、何らかの能力を発揮して乗り越えなければならない、“非対称な関係”ができあがってしまう。それがどんな行為をされたか、言葉をかけられたか、意図的だったか、そうでなかったかにかかわらず。この“非対称な関係性”と“克服をめぐる労力の大きさ”にこそ、差別が差別になり、その人の尊厳を奪う理由が詰まっている。

 現在のサッカー界では明確に、差別に「ノー」をつきつける宣言がされている。FIFAは「Say No To Racism」キャンペーンを打ち出し、あらゆるレベル・世代・地域のサッカーから人種差別をなくすことを公式の方針としている。Jリーグでもつい先日、試合前の「フェアプレー宣言」でフェアプレーの精神を共有し、差別や暴力に断固反対するメッセージを発信している。しかし、こうしたキャンペーンが続いている間にも鈴木武蔵には言葉の刃が向けられ、クリバリやルカクは幾度となくモンキーチャントを浴びて自身の態度を表明させられ、イタリアのウルトラスは論理のすり替えでこうした差別を容認するのである。表明することに意味はあるのかもしれない。ただ残念ながらその効力は乏しいし、現時点で方針を実現できているとは言い難い。

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最終更新:10/15(火) 16:53
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