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川相昌弘、ドラフト4位の肖像#2――「お前は普通科高校に行って、大学に行ったほうがいいって言われました」

10/15(火) 17:01配信

ベースボールチャンネル

「公式戦で一度も勝ったことのないチームでした」

 小学六年生の卒業文集で川相はこう書いている。

〈ぼくは、将来、プロ野球の選手になって活躍したいです。でも、その前に高校野球に出て、優勝するのが夢です。どんなに苦しくても、つらくても、努力して、夢に挑戦します〉

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 最初の夢である甲子園出場を身近に感じたのは、中学入学直後のことだった。自宅から五キロほど離れた場所にある岡山南高校が春の選抜に初出場したのだ。この大会で岡山南は準決勝にまで進んでいる。その姿をテレビで観た川相は自分も甲子園に立ってみたいと強く思うようになった。そして、ようやく本格的に野球を始められるのだと意気込んで、藤田中学校の軟式野球部に入っている。

 しかし――。

「近くに団地もあって、三つの小学校から集まってくるので人数はいるんです。でも、公式戦で一度も勝ったことのないチームでした」

 中学二年生の夏、三年生が部活を引退して、川相たちが最上級生となった。川相は自ら主将になると宣言し、練習メニューを考案した。そして秋季大会で公式戦初勝利を挙げている。

「二つぐらい勝って、(岡山市の)ベスト八ぐらいまでいったのかな」

 これが中学校での最高成績となった。

“ついでに”覗いた岡山南

 中学三年生の春季大会が終わった後のことだった。

「監督や顧問の先生がいない日に生徒だけで練習していたんです。シート打撃でぼくが打って、ベースを回ったところで止まろうと思ったら、何かに引っかかったようになって、ボキボキって音がした。足首が折れたんです」

 この骨折により、夏の大会には出場できなかった。それでも野球に対する熱は冷めることはなかった。大会が終わった後、同級生と連れだって岡山東商業に出かけている。同級生の親戚が岡山東商業野球部の卒業生だった関係で練習を見学させてもらうことになったのだ。

 岡山東商業は六五年の選抜で優勝経験がある岡山県の強豪校だった。古くは大洋ホエールズの秋山登、あるいは平松政次といったプロ野球選手を出している。その帰りのことだ。誰ともなしに、ついでに岡山南の練習も覗きに行こうという話になった。入学したばかりの春に行われた選抜で勝ち進んでいたという記憶も頭のどこかにあっただろう。

〈見つからないように校舎の陰からそっとグラウンドをのぞいていたのですが、夢中で見入っていると、突然、後ろから声がしました。

「きみたち、どこの中学生だ?」

 野球部部長の藤原忠昭先生でした。やばい、殴られると思って身をすくめると、意外にも「見学をしたいならこっちにおいで」とベンチに案内されました。そこにはテレビで見た選手たちや臼井敏夫監督がいました。伝統校ならではのピンと張りつめた重厚さを感じた岡山東商に比べ、岡山南のほうは、のどかさの中にどこかこれから強くなるぞという伸びしろをたくさん秘めた可能性を感じました。私たちは「岡山南」と印の入った硬球のお土産をもらって帰りました〉(『明日への送りバント』川相昌弘)
 
 岡山南は七七年の選抜以降、甲子園出場はない。このとき、出場していた選手はすでにチームにはいなかったはずだ。“テレビで見た選手たち”というのは記憶違いだろう。

 学業成績の良かった川相は進路相談で当然のように普通科の高校進学を勧められている。

「(岡山)南や(岡山)東(商業)という話は一切出なかったですね。これから先のことを考えたら、お前は普通科高校に行って、大学に行ったほうがいいって言われました」

 岡山商業はその名の通り商業高校である。また、岡山南も岡山商業を前身としており、商業科の他、情報処理科、服飾デザイン科を持つ専門学科の高校だった。

 しかし、川相は「先生、ぼく、甲子園に行きたいんです」と言い返した。そして練習を見学したときの印象で岡山南を選んだ。父親は川相が決めたことだからと、何も口を挟まなかったという。

 ある日のことだ。近隣に住む男からどこの高校に進学するのかと訊ねられた。

「その方はうちの近所に住んでいたんです。娘さんはぼくの卒業した小学校に通っていたはずです。うちに来たのか、家に行ったのかは覚えていないんですが」

 世間話のような調子で問われたので、川相はあっさりと岡山南であると返した。この会話の意味が分かったのは、しばらくしてからのことだった。

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最終更新:10/15(火) 17:20
ベースボールチャンネル

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