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スタンカ&バッキー「東京オリンピックの64年に頂点を極めたナニワの“助っ投”」/プロ野球20世紀の男たち

10/16(水) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

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東京オリンピック開会式の日に燃えた大阪

 初の東京オリンピックが開催された1964年は、プロ野球では大阪が熱かった。迎える2度目のオリンピックは真夏に開催される予定だが、この64年は10月10日が開会式。このため、プロ野球もペナントレースも日本シリーズも例年より前倒しして開幕した。そして、その10月10日が、南海と阪神という在阪2チームが雌雄を決した日となった。

 MVPは4勝3敗で日本一に輝いた南海のスタンカだ。ペナントレースでも自己最高、リーグ2位の防御率2.40、26勝7敗でリーグトップの勝率.788でMVPに輝いた右腕。そして日本シリーズでは、南海は2勝3敗から敵地の甲子園球場での連戦となったが、その第6戦、第7戦でも先発、

「連投には驚いたが、鶴岡(一人監督)さんの期待に応えたかった」(スタンカ)

 と、連続完封で日本一を呼び込んだ。一方の阪神にいたのが、シーズン29勝、防御率1.89で最多勝、最優秀防御率の投手2冠、外国人投手としては初の沢村賞にも輝いた右腕のバッキー。そんな“助っ投”対決も話題を集めた。

 スタンカは60年に来日して南海へ入団、1年目から17勝を挙げて鶴岡監督の信頼を勝ち取り、Vイヤーとなった翌61年も15勝。当時は別次元の身長196センチながらスリークオーター気味の投球フォームで、素直なストレートは少なく、少しだけ沈む高速シンカーを皮切りに、ほとんどの球が打者の手元で動いた。打者を踏み込ませないために、その体へ向かってガンガン投げ込む、いわゆる“ビーンボール”も武器にした。

 ただ、判定への不服から頭に血が上りやすく、巨人との日本シリーズ第4戦(後楽園)では9回裏、自信満々のシンカーがボールと判定されて激怒、直後にサヨナラ打を浴びて、ベースカバーの際に球審へ体当たり。そのままファンも乱入する騒動となり、続く第5戦(後楽園)でも危険球を投じて、警官隊までが出動する大騒動に発展している。

 身長191センチ、長い手足をくねらせながらの“スネーク投法”でナックルなど多彩な変化球を繰り出したバッキーは、スタンカとは対照的に、62年の夏にテストを受けて阪神へ。「行き先は球に聞いてくれ」(バッキー)

 というほどの制球難で、そのとき捕手を務めた“ダンプ”辻恭彦は「どこに球が行くか分からない。手の長いクモみたいな投手でした」と第一印象を振り返り、藤本定義監督も「お慈悲で取ってやった」と語ったが、その藤本監督の指示でフォーム改造に着手。63年にスライダーを習得したことで、64年にブレークした。

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最終更新:10/16(水) 16:08
週刊ベースボールONLINE

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