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“ピクシー”ストイコビッチ=シンプル・イズ・ベストの極致

10/16(水) 19:44配信

footballista

過去から現在に至るまで、サッカーの歴史を作り上げてきたレジェンドたち。観る者の想像を凌駕するプレーで記憶に刻まれる名手の凄みを、日々アップデートされる現代サッカーの観点からあらためて読み解く。

第6回は、世界的名手にして日本サッカー史にも偉大なる足跡を残しているドラガン・ストイコビッチ。圧巻のスキルで相手を翻弄した選手としての顔と、名古屋グランパスでJ1制覇を成し遂げた監督としての顔。2つの側面から“ピクシー”を振り返る。

文 西部謙司

レッドスターの星人

 FKラドニツキ・ニシェでプロデビューしたのが16歳。当時、試合中にPKを得ると、ルーキーであるにもかかわらずキッカーを志願した。大胆にも“パネンカ”を狙ったが失敗。ところが次の試合でもPKを蹴り、今度は成功させたという。ただ才能にあふれた若者というにとどまらず、気迫のこもった大器の片鱗を見せていた。

 1986年に名門レッドスター(ツルベナ・ズベズダ)へ移籍。24歳の時には「星人」に叙せられた。クラブ名「赤い星」のスターだから星人。レッドスターには5大星人がいるが、わずか3年間のプレーで選出されたのはドラガン・ストイコビッチだけである。ニックネームのピクシーは「妖精」の意味だが、もともとはアニメの主人公からとったものだそうだ。

 ピクシーは世界のスーパースターになるはずだった。

 1990年イタリアワールドカップでユーゴスラビア代表のベスト8進出に貢献。決勝トーナメント1回戦のスペイン戦は独壇場だった。左からのクロスボールを味方がすらそうとヘッド。高く上がったボールがファーサイドにいたピクシーの下へと落ちてきた。慌ててスペインのラファエル・マルティン・バスケスがシュートコースに体を投げ出すと、ピクシーはシュート体勢からピタリとコントロール。バスケスはピクシーの目の前を猛スピードで滑っていっただけだった。狙いすましてゴール。さらにFKからカーブをかけた完璧なシュートも決めている。

 準々決勝のアルゼンチン戦は、ディエゴ・マラドーナをマークしていたDFシャバナジョビッチが30分過ぎで退場となり10人での戦いを強いられる。一歩も引かなかったが、PK戦で敗れてしまった。しかし、この試合ではマラドーナを上回る活躍を見せていた。

 ワールドカップ後、フランスのマルセイユへ移籍。当時のマルセイユはアディダス社を買収したベルナール・タピ会長の下、大型補強を敢行する最も野心的なクラブだった。ジャン・ピエール・パパン、エリック・カントナ、アベディ・ペレ、クリス・ワドルなど錚々たる顔ぶれに加えられたピクシーには背番号10が与えられた。

 しかし、開幕早々に左ヒザに重傷を負ってシーズンを棒に振る。CL決勝は古巣のレッドスターとの対戦だったが、わずか数分間のプレーにとどまった。ピクシーの欠場中にペレとワドルの両サイドが機能していたため、居場所を失ったピクシーはイタリアのエラス・ベローナへ貸し出される。だが、セリエAのサッカーには馴染めないままだった。

 1992年にマルセイユに戻ったが、チームはこのシーズンの国内リーグでの買収行為が発覚。CLでは念願の初優勝を成し遂げたが、フランスリーグは2部へ降格となった。

 この1992-93シーズンが始まる前のEURO1992では、ユーゴスラビア代表が内戦の影響で出場資格を剥奪されている。ちなみにEUROで優勝したのは、ユーゴに代わって出場したデンマークだった。このシーズンはピクシーにとって、実に踏んだり蹴ったりだったわけだ。

 世界のスーパースターになるはずだったのに、その才能を十分に発揮することもなくヨーロッパでのキャリアは終わった。

 だが、ピクシーは日本で輝くことになる。1994年に名古屋グランパスへ移籍。ヨーロッパの人々が見損なった“本物のピクシー”を見られたのは日本人だった。

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最終更新:10/16(水) 19:44
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