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梶間健一、尾花高夫&杉浦享、角富士夫「ヤクルトひと筋、低迷期を支え続けた投打の左右両輪」/プロ野球20世紀の男たち

10/17(木) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

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先発でも、救援でも

 1978年に初のリーグ優勝、日本一を果たしたヤクルト。2度目の優勝は92年、日本一はリーグ連覇の93年で、その間、Aクラスは80年の2位と91年の3位と2度のみで、雨を呼ぶツバメのように低空飛行を続けていた。80年代に入り、日本一イヤーに活躍した安田猛、松岡弘の左右両輪は故障に苦しみ失速していく中で、新たな左右両輪としてチームを支えたのが、左腕の梶間健一であり、右腕の尾花高夫だった。

 梶間はドラフト2位で77年に、尾花はドラフト4位で翌78年にヤクルトへ。ともに1年目から一軍のマウンドを踏み、日本一イヤーに梶間は阪急との日本シリーズで3試合に登板、第5戦(西宮)では先発も務めたが、1年目の尾花はペナントレースで中継ぎ登板による1勝のみ。それでも尾花は、ヤクルトひと筋14年の中で、野球をやっていてよかったと思ったのは、その1年目だけだという。それだけ長く苦しい80年代だったのだ。

 ともに先発、救援と役割は固定されず、チームのために投げまくった。79年の最下位から一躍、2位に浮上した80年に、梶間は阪神キラー、尾花は巨人キラーとして貢献した。自己最多の15勝を挙げた梶間は、そのうち7勝を阪神から、尾花は8勝のうち5勝を巨人から挙げている。

 尾花が初の2ケタ12勝を挙げたのが82年だったが、7イニング以上を投げて勝利投手にならなかったのが11試合あり、そのうち9試合で敗戦投手となり、1点差で敗れたのは7試合。打線の援護があれば20勝も夢ではなかったはずだが、不満は口にしなかった。81年から2年連続で6勝に終わっていた梶間も、83年に14勝と復活。以降3年連続で2ケタ勝利も、その3年目の85年にはリーグ最多の17敗を喫した。尾花も82年から4年連続2ケタ勝利。自己最多の14勝7セーブをマークした84年は、梶間は12勝2セーブで、ヤクルトの全51勝のうち35勝は2人の活躍によるものだ。

 だが、85年の梶間に続き、尾花は86年からは3年連続でリーグ最多の黒星を喫している。この3年間、独特の変則フォームが腰への負担となっていた梶間は、椎間板ヘルニアで苦しんでいた。88年に1勝を挙げたものの、それが最後の勝ち星となり、オフに現役引退。翌89年には尾花が11勝を挙げたが、これが最後の2ケタ勝利となった。

 尾花も満身創痍で、91年オフに現役引退。皮肉にも、その翌92年にヤクルトはリーグ優勝する。ただ、生涯2203イニングを通じで押し出し四球はゼロ。その抜群の制球力は球史に残る。

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最終更新:10/17(木) 16:01
週刊ベースボールONLINE

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