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『ジョーカー』は“ヒーロー映画ブーム”を終焉に導くトリガーに? 批判も賞賛もできる“二面性”

10/17(木) 10:19配信

リアルサウンド

 ヒーローや悪役が登場するアメリカン・コミック原作の大作映画が次々にヒットを飛ばしているなか、それらとは全く異質なタイプの、しかも圧倒的な映画が生み出された。アメコミを代表する人気ヒーローであるバットマンの宿敵が誕生するまでの過程を描いた、問題作『ジョーカー』である。

【写真】ジョーカーを熱演したホアキン・フェニックス

 本作が映し出していくのは、ジョーカーになっていく不幸な男アーサーの体験であり、彼の脳内の物語である。観客は、本作の物語と演出によって、その道程を彼とともに歩み、そこに生まれる狂気をも追体験することになる。ときにそれは、一部の観客が映画に影響を受け、凶行を犯す危険性を意識的に助長すらしているようにも感じてしまう。なぜなら本作は、ジョーカーというカリスマに感化され扇動される人々を描いているからである。

 ここでは、その圧倒的内容からヴェネチア国際映画祭の最高賞である金獅子賞まで獲得してしまった『ジョーカー』の内容を紐解きながら、衝撃の中身と影響について考察していきたい。

 本作が多くの点で表現をほとんどそのままとり入れている映画がある。ニューヨークを舞台にロバート・デ・ニーロが主演した、マーティン・スコセッシ監督の一連の作品群、『タクシードライバー』(1976年)、『レイジング・ブル』(1980年)、『キング・オブ・コメディ』(1983年)などである。

 『バットマン』シリーズの舞台となるゴッサムシティは、ティム・バートン監督による『バットマン』(1989年)では、ゴシック風の要素を強調したニューヨークの風景として表現されていた。また、クリストファー・ノーラン監督のダークナイト3部作のなかでジョーカーが活躍する『ダークナイト』では、シカゴの風景が映し出される。そして本作『ジョーカー』は、マーティン・スコセッシが当時切り取った、ニューヨークの雰囲気を、ブラッシュアップするかたちで再現しようとする。

 だが、本作のイメージはそれだけではない。それ以前にニューヨークの街には、未曽有の好景気に沸いた1920年代の狂騒と、その終わりに起こった恐慌という、ダブルイメージが刻印されている。ニューヨークをある角度から克明にとらえようとすれば、それらは自然に染み出してくる。それを意識的にやっていることが分かるのは、劇中に喜劇王チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936年)が登場する部分である。この作品は不景気を描いた、同じくチャップリンの『街の灯』(1931年)以後、苦境に立たされた労働者が、文字通り社会の歯車として、人間扱いされないことによって狂気を帯びていく物語だった。

 ここでのチャップリンの不謹慎とすらいえる社会風刺は、本作の監督トッド・フィリップスの、現代社会の要素をとり入れる過激な笑いに通じるところがある。本作『ジョーカー』は、ふたたび深刻化する現代の格差社会と共通点を見せる、『モダン・タイムス』のやり直しであるといえよう。そしてスコセッシの撮ったニューヨークの風景のおそろしさには、このような源流が存在するのだということをも示唆しているのだ。

 都会の片隅に住む、社会にうまく適合できない一人の人間に密着しながら、狂気に陥っていく様をドキュメンタリー風に演出していく、リアリティを追求したスコセッシ作品は、60年代からの体制への反骨精神を描いたアメリカン・ニューシネマを、より現実に結びつけるものとして、当時の映画界に衝撃を与えた。本作はその異端的な不気味さや、きらめきのようなものまでも甦らせようとしていく。

 主人公アーサーは、『バットマン』シリーズの舞台である“ゴッサムシティ”で、老いた母親の介護をしながら、底辺の生活を余儀なくされている中年男である。精神的な問題から、ストレスがかかると笑いが止まらなくなるという症状を持ち、周囲から気味悪がられている。ロバート・デ・ニーロ演じるベテランのコメディアンに憧れの念を抱き、自分もまたコメディアンになりたいという夢を見ながら、出張ピエロの事務所に在籍しているものの、将来の展望は暗く、そんな不安をごまかすかのように、社会保障によって得られる7種類もの抗精神病薬に頼っている状況。帰路にそびえる急な階段を、重い足取りで登っていく悲痛な姿に、彼の深刻な日々が象徴されている。

 そんな現実の重圧は、アーサーが成り行きのなかで殺人を犯すことで奇妙にも、むしろ軽減されることになる。初めての犯行の直後、彼は逃げ込んだ公衆トイレの中で静かに法悦のダンスを始めるのだ。世の中に何の影響も及ぼすことができないと思われた自分が、殺人というかたちであれ、人々の注目を集めるような“重大なこと”を成し遂げたのである。ホアキン・フェニックスが、同タイプの演技者であるロバート・デ・ニーロのように、役そのものになりきる“メソッド演技”で臨んだ、このアーサーの悲痛な日常からの解放の表現は、その類い希なリアリティによって、観客に不気味なカタルシスすら与えてしまう。

 ここで殺害された人物たちは、格差社会のなかで一流企業の証券マンとして我が世の春を謳歌し、貧乏人や女性を見下して暴行するような悪人として描かれる。彼らをあくまで一般市民と考えれば、殺害に及んだアーサーの行為は悪行だが、彼らを社会に巣くう非道な人物たちだととらえれば、アーサーはある意味でヒーローに接近していると捉えることもできなくはない。実際、格差社会に虐げられた暴徒たちにはヒーローとして崇められるのだ。この異様な二面性というのは、さながら『タクシードライバー』のトラヴィスの顛末のようであるし、同時に、正義の名の下に自警活動を行うバットマンの持っている、ある種の異常性にも通底する。

 ここでさらに連想するのは、アメリカで頻発する銃乱射事件である。本作の「この人生以上に硬貨(高価)な死を」というセリフに象徴されるように、何一つうまくいかない現実を生きる者にとっては、生よりも死の方がマシに思えるのは理解できるし、そう感じる自殺者が増えていけば、どうせ死ぬのなら、自分をバカにしているような人や幸せな人、社会的地位の高い人を道連れにしてやりたいという感情を持つ人物も出てくるはずだ。そういう人間にとって、もはや死はそれほどおそろしいものではない。だから捨て身で凶行に及ぶことができる。本作は、そういった考えに至る一人の人間の心理を、ホアキン・フェニックスの見事な演技によって、丹念に観客に見せていく。通常の人間ドラマと同じように、つらい境遇に同情させ、キャラクターに感情移入させながら。そして、その先にあるのが凶悪犯罪だからこそ、危険な作品だと言われるのだ。

 実際の近年の銃乱射事件は、不満をためた白人男性が加害者の場合が多く、その凶行の根底に人種差別意識が指摘されることも少なくない。だが劇中でアーサーは、『タクシードライバー』の主人公であるトラヴィス同様に、政治的な意図がないことを述べている。それは、もともとジョーカーというキャラクターに人種差別的要素が希薄だという事情もあるだろう。その反面、本作が到達点とするジョーカーのキャラクターには、疑問を感じる点もある。バットマンと渡り合うことになるジョーカーのイメージは、狂気にさいなまれているとはいえ、抜け目のない非常に優秀な男ではないのか。何をやってもうまくいかず、ユーモアのセンスもないアーサーには、そんなカリスマ的な存在になることなど到底無理なのではと感じてしまう。

 とはいえ一方では、何の特別な能力も持たない平凡な人間が格差社会の犠牲になっていくことで暴力的になっていき、そこか得られる恍惚感だけが寄りどころとなっていくという構図というのは、多くの人々が乱射事件やSNSなどで目にしている、近年最も顕著で身近な社会問題である。そこには、いつ身近な人や自分自身がそうなってしまうか分からない恐怖も存在している。

 ヒーローが時代によって様変わりするように、悪のかたちも変化する。いま最もおそろしいのは、むしろ優れた能力を持たない、愚鈍な悪なのではないか。そして同時に、それを作り上げている酷薄な社会ではないのか。この、きわめて現代的な問題をすくい上げているからこそ、本作は現代人にとって無視できない存在になっているし、内容に戦慄させられるのである。

 そして、さらに本作をただならぬものにしているのは、やはり“二面性”である。虐げられ続けた者が常軌を失っていくという流れは、一見図式的で単純すぎるように思えてしまうところもあるし、本作には実際にそういった批判も多い。しかし、シーンを追っていくと、そのような筋書きを超えた複雑な印象をも与えられるのだ。善良だと思われた人間がジョーカーになっていくことの悲しさと恍惚、犯行に至る心情への是非、そして物語自体の虚実と、この映画はいつでも二つの顔を持ち、それを見る角度によっては批判もできるし、逆に賞賛することもできる。このような曖昧さこそ、『タクシードライバー』などの作品が表現していたリアリズムである。

 当初、本作のプロデューサーになるはずだったマーティン・スコセッシは、スケジュールの都合で製作から離脱したことが伝えられている。面白いのは、シネフィルとして知られるスコセッシが、近年のヒーロー映画全般を「テーマパーク・フィルム」と表現し、それは映画とは別のものだと語った、最近の出来事だ。この発言というのは、おそらくMCUやDCEUのように、それぞれの作品をシリーズの一部として扱う、アメコミヒーロー映画の新しい流れへの違和感からきているように思われる。作品一つひとつが、テーマパークのアトラクションのように、全体の一部として奉仕するコンテンツになってしまっていることであろう。

 一部のヒーロー映画の監督たちは、スコセッシへの尊敬を示しながらも、その発言に反発を表明している。『アベンジャーズ』シリーズのように、複数の作品が繋がりを見せることによって生まれる魅力もあるのだ。マーベル・スタジオの制作を統括するケヴィン・ファイギの示すロードマップによって、作品はいままでにないダイナミックな物語を語ることができる。

 しかし、たしかにそういう環境において、個別の作品に多かれ少なかれ制約が生まれるのは確かなのだ。『タクシードライバー』のように、監督が自主的に現実の世界と同じ揺らぎのある表現や、突出した作家性が、そのような土壌から芽吹くことは難しい。つまりスコセッシは、真の映画とは、作り手が規律から抜け出して自由を手にすることによってしか生まれないと言いたいのではないだろうか。トッド・フィリップス監督は、『ジョーカー』をあくまで単独の映画だと発言し、DC映画のユニバースに加わることを、少なくとも現時点で否定している。それはスコセッシ同様、作品の独立性こそが作家性を守るという信念を持っているからであろう。

 独立意識はそれだけにとどまらない。本作を観ていると、『タクシードライバー』などへの熱い愛情に対し、コミックの設定とのつながりを示すようなシーンは冷めていて、事務的だとすら感じられるのだ。つまりトッド・フィリップスは、ヒーロー映画自体にはそれほど興味がなく、もっといえばジョーカーというキャラクターにすら、しっかりと注意を払っているわけではない。あくまで犯罪に手を染めていく人間の心理を、揺らぎを持って描くこと、そして狂いゆく人物の見る世界と、人を狂わせる社会を映し出す表現こそを魅力としているのだ。しかし、その愛情や尊敬の希薄さこそが、今回ジョーカーという存在の隠された可能性に光をあてることに成功したともいえよう。

 快進撃を続けているマーベル・スタジオのヒーロー映画に存在しなかったのは、この燃え上がるような監督の作家性であり、一つの映画作品としてのただならぬ“本格感”ではなかったか。この圧倒的な『ジョーカー』以降、いままでのようなヒーロー映画が公開されたとして、どうしても小粒に感じられてしまうのは免れないのかもしれない。

 このように、『ジョーカー』一作の衝撃で、世界の見方は激変してしまった。もしかしたら、本作がヒーロー映画ブームを終焉に導くトリガーになったのかもしれないのである。この緊急事態を受け、マーベル・スタジオはもちろん、それを生み出したDC映画が、今後どのように作品を展開するのか、そして本作のようなアートフィルムとしての魅力を持った犯罪映画にふたたび脚光が集まるようになるのか……。『ジョーカー』は、まさにあらゆる意味で混沌を呼び込んだ一作として映画史に刻まれる作品になるだろう。

小野寺系

最終更新:10/17(木) 10:19
リアルサウンド

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