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世界最強の不沈戦艦を作れ! 戦艦大和設計者リアル「アルキメデス」の証言

10/17(木) 21:00配信

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映画『アルキメデスの大戦』が公開され、戦艦「大和」が注目されはじめています。
2020(令和2)年は、「大和」轟沈75周年。大艦巨砲主義から航空主兵への戦略的「技術」の変革期になぜ巨大戦艦「大和」が作られたのか。『戦艦大和 建造記録』の編著者が、「大和」設計者=リアル「アルキメデス」の魂の証言をここに再編集。みなさんにお伝えします。

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 戦艦「大和」に人生を捧げるとはどういうことか。そこには設計者の「平和」への切なる願いがみなさんに届くはずです。当時の帝国軍人は「戦争」を望んでいたのではありません。無秩序な列強のパワーバランス(帝国主義)の時代に、どう安寧の秩序への折り合いをつけるかという問題意識のもと、世界最強の戦艦「大和」が誕生しました。
 私たち日本人に今でも「大和」が響くのは、当時の日本国が時代と真摯に向き合った「葛藤」の産物であり、日本人としての平和への信念を貫こうとした最終兵器としての「大和」だったからかもしれません。福田啓二海軍技術中将の言葉は戦艦「大和」の産みの苦しみと世界最強の雄叫びで誕生した秘話としてぜひ知っていただきたく思います。

◇大時代的な大艦巨砲主義

 物言わぬ図面とのみ取組む技術者にも青春はある。恋をしたり悩んだりする時代のことをいうのではない。およそ技術者として、自分の心魂を使い果して悔いのない仕事にぶつかった時、それが彼の青春というものであろう。
 その意味での私の青春は、太平洋戦争の末期に、戦艦「大和」「武蔵」がその持てる力を充分に発揮しないで、永遠に海の藻屑と消え去った時に、失われた。なぜなら、大和、武蔵こそ、私の生涯を賭した作品だったのである。


 ある意味で、私の青春は不幸だった、と言えるかもしれない。けれども、あらゆる青春が必ず、不幸にもせよ忘れ難い思い出であるように、私もまた、大和の設計に没頭した日々のことを忘れるわけにはいかない。たとえ、それが一老技術者の感傷と人に笑殺されようとも、である。

 「世界に三つの無用の長物あり。万里の長城、ピラミッド、そして大和、武蔵」ということが一時言われた。
 制空権を全く敵の手中に奪われた情勢下の艦船は、目つぶしにあって怪力を封じられた巨人のようなものだった。そしてついには無謀といえる程の自殺的突撃行で、裸のまま群がる敵機の餌食となりに行く運命を、辿るより他はなかったのである。
 それゆえ、結果的には大和たちは正に無用の長物という名に値した。しかし、たとえば万里の長城も夷狄の侵入を防ぐための独創であったように、7万トン近くの巨艦もただいたずらに大を望んで造られたものではない。建造当初、それは日本という祖国を泰山の安きに置く文字通りの浮城であるはずだった。
 そして、もし空の護りさえもっと堅かったら、おそらく浮城を有名無実に終らしめないで済んだかもしれないのである。そう思うのは、死児の齢を数えるに等しいであろうか。


 ──この悲劇の戦艦大和たちの建艦が計画されたのは、昭和9(1934)年、まだ支那事変(1937年)も始まらないころだった。
 そのころ各国海軍の海戦に対する心構えは、まだ航空機を利用することより、むしろ
「出来るだけ大きな艦に出来るだけ大きな大砲を載せて戦おう」ということだったのである。
 船と船とが洋上で決戦する場合、敵の砲弾の届かぬ自砲の射程内に敵を引き寄せ、いち早く先制攻撃をしかけるのがよい。この佐々木小次郎式の、敵より長い得物で勝負する方が有利だ、という考え方は、日本海海戦以来の伝統的な考え方である。そのためには船も大きくなくてはならない。それがいわゆる大艦巨砲主義だった。
 航空機万能時代の今日から思うと、まことに大時代的なユーモラスな話である。しかし当時の海軍国にとっては必死の課題だった。


 そして、無敵といわれる帝国海軍の悩みは主力艦の数において英米に一歩を譲っていることだった。大正11(1922)年以来、例の「ワシントン条約」によって、英、米の5、5に対し3の比率でしか保有出来ないように押えられている。
 そうでなくても持たざる国日本は、数で英米に対抗することは困難だ。
 とすると、日本としては数の不足を質、つまり一隻あたりの主力艦の性能を英米に勝るものにするより他はない。
 それゆえ、英米が大艦巨砲主義で来るなら、日本は超大艦超巨砲主義で行かなければ、次第に高まる太平洋の波を静めることは出来ない、というのが帝国海軍の信念だった。

◇新艦研究に着手

 しかし言うは易いがこれを実現するのは非常に難題であった。
 というのはワシントン条約有効期間中は新艦の建造は許されず、わずかに保有艦の改装で憂さ晴らしでもしていなくてはならないのだ。
 では、これらの保有艦を如何にして超大艦超巨砲に改装するか。昭和の初期のことだから、世間は「ジャズで踊ってリキュールに耽けて」いた時代だが、帝国海軍は、浮世の風もよそに、日夜この問題と取組んでいた。
 実際、重装改装工事は各艦とも着々と行われた。
 しかし船の改装も所詮は、人体の若返り法と等しく一時しのぎの宿命を脱するわけにはいかない。「なんといっても年は年」ということが船の場合にも当てはまる。
 いくら超大艦超巨砲でもそれがもし、たやすく沈むような間に合わせのものなら意味がない。真に不沈性を持った超大艦超巨砲を欲するなら、ワシントン条約の期限明けにすぐ着工出来るように、新艦建造の用意をしておく必要がある。


 もはや来るべき時は来た。我々技術者も、この瞬間こそ、鶴首して待ち構えていたのである。大正5(1916)年ごろの「陸奥」級戦艦の設計以来、20年近くもほとんど無駄メシを食っていたようなものだった。今述べた保有艦の改装工事もあるにはあったが、それは技術者としての本懐を遂げるような仕事ではない。すぐにも飛んで行って、ワシントン会議の条約文を引き破ってきたいような気持を圧えて雌伏を続けていたところである。
そこへ、軍令部から海軍省に、
「世界最大の46サンチ砲を搭載した不沈新鋭戦艦の研究に着手してほしい」 という申し入れがあったのだ。艦政本部が待ってましたとばかり色めき、湧き上り、気負い立ったのも無理はない。


 当時、私は艦政本部第四部(造船部門)の基本計画主任だった。軍令部の要求にしたがって、基本的なしかも技術的に責任のある艦型、寸法等の設計をするのが私の職責である。エンジンは第五部の渋谷技術少将、大砲は第一部の菱川技術少将のところで設計研究をした。私のところではこれらをデータに使って一つの機能的に総合された船に設計する。いわば家を建てる前に建築屋が、壁屋、畳屋の意見を総合して見取図を作るようなものだ。これには寸分の杜撰も許されない。もしいい加減な設計を回答して、その通りの船を造れ、といわれた時、それが出来なかったら大変である。


任務は重大だった。だが私の胸は希望にむしろ膨らむ。
 なるほど、この新型戦艦の建造は、まさに空前の大事業ではある。しかし我々の前には幾多の先輩の残してくれた造船技術の集積があった。これを受け継いで更に研究を進めるならば軍令部の要求する帝国海軍の救世主を造り出すことも不可能ではないからである。
(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より引用)

 

文/原勝洋

最終更新:10/24(木) 4:51
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