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「私の人生に欠けていたのは真剣さだった」と後悔する56歳の秋|おとなの手習い

10/19(土) 6:05配信

幻冬舎plus

香山リカ



2016年9月になる頃から通い始めた自動車学校。

技能教習つまり実際の運転のレッスンは、拍子抜けするほど楽しかった。いや、もちろん、休憩時間に、受付で指定された番号の教習車の助手席に乗り込んで教官を待つときは、毎回ものすごく緊張する。次の時間が始まる音楽が鳴って教官が運転席にスルリと滑り込んでくるまでは、その日の担当教官が誰なのかわからないのだ。

教官には60代と思われるベテランから20代の若手、それから女性も1割ほどだがいて、どの人もとてもキビキビしていた。ただ、私が大学時代に通った教習所にいたような、「あー違う違う!」とイライラを隠さなかったり、「医学生? ムリムリ」とイヤミを言ったりするような人はひとりもいなかった。「北風と太陽」で言えば、完全な太陽タイプばかりだ。 

こちらが緊張と委縮で、「すみません、こんな年寄りがいまさら習いに来て」とか「もうぜっんぜんできないんです!」と口走っても、「トシは関係ありません、だいじょうぶですよ」「ちゃんとできてるじゃないですか」などと、とにかくポジティブなことしか言わない。日頃ほめられることが少ない私は、それだけでもポワーンといい気分になり、「え、そうですか? できてます?」と調子に乗って確認しては、「はい」と言われると「よし、もっとがんばろう!」とテンションが上がった。

精神科医として人間の心理の複雑さについては、よく知っているはずであった。しかし、「おだてられればやる気が出る」というこんな単純なことが、自分で経験するまでわからなかったとは……。有頂天になった気分も冷める帰り道では、いつも自分の経験の浅さを恥じることになった。

そして、「有頂天な気分」だけではどうにもならないとわかったのが、学科の教習であった。

実技の教習が半分程度、終わったところで、路上教習に出るための仮免許試験を受けなければならないのだが、その前に「仮免学科試験」なるものもクリアしなければならない。それは30分で50問の文章にマルバツで答えるのだが、「50問の90%である45問以上の正解」が合格ラインだ。ちなみに、最終的に外の免許センターで受ける学科試験は、「制限時間は50分で問題数は95問で90%以上の正解」が合格ライン。どちらも合格には「9割正解」が必要という厳しさなのだ。

もちろん、中には常識だけで正解可能なものもある。次のような問題だ。

「追い越しは素早く行わなければ危険なので、一時的に制限速度を超えて走行することが許可されている。」

これはもちろん、「制限速度は一時的であっても超えてはいけないのでバツ」だろう。

「雨が降っていなければ、ワイパーが故障していても走行してよい。」

これも、「走ってるあいだに雨が降り出すこともあるだろう」と考えるとバツとわかる。しかし、これはどうだろう。

「幅の広い歩道であれば、歩道の中に駐車することが可能だが、車の左側には0.75m以上の余地をあけなければならない。」

一般的に考えて、歩道に駐車するのはマズいだろう。しかし「車の左側には0.75mの余地」といういかにもな数字があるところを見ると、広い歩道の場合は例外的に少し乗り上げて停めてもよいのかもしれない。たしかに狭い車道に駐車されるとクルマの通行に障害が出て、かえって危険な気もする……。これなど考え出すとかえってわからなくなるが、答えはやはり「歩道の駐車はダメ、停めるときは車道の左端に」ということでバツなのだ。

そして、次のように、いくら考えてもどうにもならない問題もある。

「故障車をロープをつないでけん引する場合、故障車の重量が2t以下で、けん引する車がけん引される車の3倍以上の重量であれば、法定速度は40km/hである。」

答えはマルなのだが、これは理屈というより「そう決まってるから」としか言いようがない。

私が通った教習所には「学科試験の勉強部屋」があり、模擬試験の問題とマークシートを貸し出し、その場で採点もしてくれた。最初は「そんなところに行かなくても」と思っていたが、授業で何度も「模擬試験、受けてくださいよ」と教官が言うので、軽い気持ちで寄って、そして驚いた。模擬試験の採点で「不合格」と出たのだ……ということは、前々回でも書いた。

それから私はあせり、「とにかく参考書をゲットしなくては」とアマゾンで『これで安心! 学科試験合格のコツ』といった本を探したが、その手の本はほとんど出ておらず、75歳以上が義務づけられている認知機能検査の対策問題集ばかり目についた、ということも前回書いたとおりだ。ニーズがないのだろう。いったいみんなどうやって勉強しているのか。私のように模擬試験不合格、などという人はいないのか……。

それからネットでひそかに「運転免許/学科/落ちた」といったワードで検索すると、学科試験不合格の体験記はけっこうアップされていて、ちょっと安心した。それにしても、ふつうは免許の学科試験に不合格になったことなど、誰にも言わずに隠しておきたいはずだ。私だって、「模擬試験に不合格になった」とこの連載ではじめて口外している。しかし世の中には、ありがたいことに「自分の失敗談がほかの人の役に立てば」と考える、慈善の精神にあふれた人がたくさんいることがわかった。

いつにない真剣さで、私はその体験記をいくつも読んだ。そして、よくわかった。学科試験合格にはコツもポイントもなく、教習所でもらったテキストの数字などをしっかり覚え、巻末の標識一覧を正確に暗記するしかないのだ。ゴロあわせとか頻出問題を50覚えればよいとか、要領よくやろうという方が間違っていたのだ。

私はようやく自分の不誠実さを反省し、それからは入校のときにもらった単語帳のような「道路標識カード」を常に持ち歩いて、電車の中などで覚えるように心がけた。

そう、この私に全般的に欠けているもの、それはこの「真剣さ」なのだ。標識カードを通勤電車でめくっていると、若い頃からのさまざまな苦い思い出が頭によみがえる。「もっと若い頃からなにごともこうして真剣にやっていれば」という後悔で叫び出したくなるが、そのたびに「いやいや、まずはこっちを覚えなくては。これは黄色実線じゃなく黄色点線だから、駐車禁止、つまり停車はOKという標示だな」と手もとのカードに意識を集中することで難を逃れたのであった。

さて、こうやって書くと、2016年の秋から冬にかけては私が運転免許獲得にのみ専念していたように思われるかもしれないが、そうではない。大学に行ったり病院に行ったりという日常の仕事はそれなりに続け、さらに別のことも始めていた。
 


■香山リカ
1960年、札幌市生まれ。東京医科大学卒業。精神科医。立教大学現代心理学部映像身体学科教授。豊富な臨床経験を活かし、現代人の心の問題のほか、政治・社会批評、サブカルチャー批評など幅広いジャンルで活躍する。『ノンママという生き方』(幻冬舎)、『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』『イヌネコにしか心を開けない人たち』『しがみつかない生き方』『世の中の意見が〈私〉と違うとき読む本』『弱者はもう救われないのか』(いずれも幻冬舎新書)など著書多数。

最終更新:10/19(土) 6:05
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