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19年前のON決戦で輝いたダイエーの崖っぷち助っ人とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

10/21(月) 11:01配信

週刊ベースボールONLINE

ON決戦は選手も豪華

 まるで「20世紀のNPBオールスター戦」だ。

 一塁走者の秋山幸二と一塁手の清原和博がなにやら言葉を交わす写真が掲載された、『週刊ベースボール』2000年11月11日増刊号の第51回日本シリーズ特集を見ながら、そう思った。19年前、昭和プロ野球の象徴でもある長嶋茂雄と王貞治の両監督が対峙したON決戦だが、両チームの選手も異様に豪華だ。

ファン熱狂! 20世紀の終わりに実現した珠玉の「ON対決」【2000年】

 まだ海外移籍もほとんどなかった国内FA市場と逆指名ドラフトの全盛期、平成前半に黄金時代を築いた西武ライオンズの中心メンバーの秋山がダイエー、清原と工藤公康がそれぞれ巨人に在籍。のちに侍ジャパンを率いる小久保裕紀、平成唯一の三冠王・松中信彦、現ロッテ監督の井口資仁が鷹打線のスタメンに名を連ね、巨人には元広島の四番バッター江藤智や、まだ20代中盤の若き高橋由伸、上原浩治、二岡智宏ら錚々たるメンツが顔をそろえた。最終的に、4勝2敗で長嶋ジャイアンツが日本一に輝くわけだが、MVPは打率.381、3本塁打、8打点の活躍で“ミレニアム打線”の四番を張った松井秀喜。激闘賞は3試合連続を含む4本塁打を放った平成最高の打てるキャッチャー城島健司。この数年後に両者はメジャー・リーグへ移籍することになる。

 そんな球史の変わり目、今はすっかり強豪チームのソフトバンクだが、ダイエー時代の初優勝は福岡移転11年目の1999年(平成11年)のことだ。当時のホークスの外国人選手と言えば、00年日本シリーズ第3戦で先発して負け投手になった名前のインパクトでは負けていないブレイディー・ラジオ……じゃなくて、「投のペドラザ、打のニエベス」である。

日本行きという最後のチャンス

 ロドニー・ペドラザは99年4月半ばに29歳で来日。メジャー経験はゼロで、3Aで投げたこともほとんどない。2Aと1Aを行き来する崖っぷちの中堅投手だった。それでも「日本で十分に通用するスピードだったし、制球が良く、球の出どころが見にくい長所があった」とダイエースカウトの目に留まるが、当初は交渉の窓口になる代理人すらついていなかったという。食事はたいていハンバーガー、オフの野球教室でなんとか食いつなぐ先の見えない日々。そうこうする内にじき30代になっちまう。「俺はもう28だ。背伸びなしで30が見えてくる。30は男が動かなくなる理由になる」とは人気漫画『宮本から君へ』の有名な台詞だが、ペドラザは日本行きという最後のチャンスにすべてを懸けた。

 ダイエーも当初は先発を想定しての獲得だったが、5月から敗戦処理として投げ始め、徐々にベンチの信頼を得ていく。抑えの岡本克道が右肩痛で離脱すると、ペドラザがクローザーへ昇格。アメリカ時代に右肩の手術歴があり連投への不安はあったが、ここで結果を残せなきゃ野球人生が終わってしまう。腹を括って投げまくった年俸2000万円の格安助っ人は48試合、3勝1敗27S、防御率1.98という好成績でチームの初優勝に貢献する。「史上初のドームシリーズ!」なんて煽りに時代を感じる99年の日本シリーズは星野仙一率いる中日と激突。ここでもペドラザは当たり前のように3連投でリーグVに続き、シリーズでも胴上げ投手に。当時の週べにはこんな喜びのコメントが掲載されている。

「野球人生の中で最高の瞬間だ。3連投? 今日さえ頑張れば3カ月休めるのだから気にならなかった」

 2年目の2000年はキャンプから連投を想定しての投げ込みも功を奏し、35セーブで初の最優秀救援投手を獲得。頼れる背番号50は2年連続の胴上げ投手となり、ONシリーズ前には「王監督と長嶋監督の間柄は詳しく知らないが、日本の野球史に残る、大きなイベントになるというのは分かっているよ」と意気込みを語っている。来日2年目のペドラザがこれだけ意識するのだから、やはりファンだけでなく参加選手も特別なイベント感は強かったのだろう。なお第1戦の関東地区でのテレビ視聴率は36.2パーセントまで跳ね上がった。

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最終更新:10/21(月) 11:06
週刊ベースボールONLINE

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