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チューリップ時代の始まり【伝説の絵師レヴニー(2)】|オスマン帝国英傑列伝

10/21(月) 6:05配信

幻冬舎plus

小笠原弘幸

およそ600年という史上まれに見る長期間、繁栄を誇ったイスラムの盟主「オスマン帝国」。前代未聞の大帝国を築いたのはどんな人物たちだったのか。
ベストセラー『オスマン帝国』(中公新書)の著者小笠原弘幸氏がオスマン帝国の傑物10人を考察する新連載。
今回は天才絵師レヴニーを取り上げます。

天才絵師の登場

レヴニーとは、彼が絵師として名を成したあとの筆名である。その意味は、「色」。彼が得意とした、明るく色彩豊かな細密画の作者にふさわしかろう。

彼の本名は「アブデュルジェリル」であり、「偉大な者の奴隷」を意味する。もともと、「アブド」は「奴隷」、「ジェリル」は「偉大な」の意味のアラビア語の単語である。イスラム教では、アッラーは99の美称を持つとされており、「ジェリル(アラビア語の発音だとジャラール)」もそのひとつであった。つまり、ムスリムによく見られる「アブドゥッラー」や「アブドゥッラフマン」など、「アブド~」という名は、すべて「神の奴隷」という意味なのである。 

そのレヴニーは、1681年ごろ、オスマン帝国第二の首都エディルネで生まれた。テッサロニキ出身とする研究者もいるが、こちらの説はいささか根拠が弱い。

オスマン帝国の首都はイスタンブルであったが、17世紀後半より、大都市の喧騒を離れてエディルネの離宮で過ごすスルタンが多くなった。レヴニーは、少年のころ、このエディルネの宮廷に召し抱えられ、宮廷工房の徒弟となったようだ。

レヴニーがどのような出自であったかは明らかではない。ミマール・スィナンの時代であれば、宮廷に仕える人物はデヴシルメで徴用された元キリスト教徒に限られていた。しかし17世紀に入ったころからデヴシルメは廃れはじめ、縁故や有力者の推薦などの伝手によって宮廷に出仕することが一般的となった。後述するように、レヴニーはトルコ語でしばしば詩作している。してみるとレヴニーは、トルコ系かつ、悪くない家柄の出身であった可能性が高い。

宮廷工房でレヴニーは、当初、写本を装飾する役目を与えられていたが、徐々に頭角を現してゆく。当時の細密画工房の長は、絵師ヒュセイン・イスタンブリーであった。優れた技術を持つ彼を師匠として、レヴニーは細密画の作成にかかわるようになる。ついにレヴニーは、ムスタファ二世(位1695-1703年)の時代には細密画工房の長に任じられたらしい。このころ、彼はまだ20歳前後である。この若さでの抜擢は、彼の才能が抜きんでていたことを示していよう。ムスタファ二世治世の末期には、彼の代表作のひとつ『絵入り大系譜書』(後述)の作成に着手している。

順風満帆であるかに見えたレヴニーの画歴であったが、ムスタファ二世を継いでアフメト三世が即位してまもなく、悲劇が彼を襲った。眼病に侵されたのである。1706年に彼がスルタンに宛てた請願書には、3年間あらゆる治療を試したが芳しくないこと、新作を描けないため旧作を献呈するのを許してほしいこと、妻子の扶養のための援助をたまわりたいことが記されている。細密画は、その名の通り微細な作業を必要とする。画家の目への負担も大きかったであろう。

レヴニーの請願は受け入れられ、銀貨20枚の日給が支給されることになった。この時代のほかの絵師たちの日給が、銀貨5枚から17枚程度だったことを考えると、破格の待遇である。こうした厚遇を受け、レヴニーの眼病は徐々に癒えていったようだ。

レヴニーが、真にその才能を発揮するのは、アフメト三世治世の後半にあたる「チューリップ時代」(1718-1730年)と呼ばれる時期である。つぎに、この時代を簡単に紹介しよう。

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最終更新:10/21(月) 6:05
幻冬舎plus

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