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若林忠志、与那嶺要&宮本敏雄「ハワイから来た男たちの衝撃」/プロ野球20世紀の男たち

11/10(日) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

阪神の礎を築いた“ボゾー”

 ハワイのアロハシャツは、日本の和服が起源なのだという。古くから交流のある日本とハワイだが、それはプロ野球も同様。公式戦の幕が開けた1936年から、ハワイ出身の日系人選手がいた。タイガース(現在の阪神)に入団し、“七色の変化球”で一世を風靡したのが“ボゾー”若林忠志だ。

 両親は広島からの移民で、28年に親善試合で来日。このときの快速球やナックルに注目したのが対戦した法大だった。だが、早大と慶大が猛反対。そこで本牧中へ転入してから法大へ。東京六大学では自分の進路を妨害した早慶に幾度もリベンジを果たした。33年には学生結婚、卒業後は日本コロムビアへ。まさにプロ野球が産声をあげようとしていた頃だ。最初に声をかけてきたのが巨人だったが、

「職業野球が隆盛に向かうように持っていく自信がある。それにしては金額が少なすぎる」

 と、拒否。提示されたのは月給150円だった。続いて阪急、タイガースと誘われ、このとき、プロ野球で初めて契約金を要求している。金額は1万円。これを了承したのがタイガースだった。ただ、夫人の両親には「大学まで出て、どうして球コロガシをするのだ」と猛反対されている。そして、プロ野球が始まってからも大学時代の酷使もあって結果を残せず。思い切って38年の1シーズンをリハビリに費やしたことが飛躍につながる。

 翌39年は同郷の“カイザー”田中義雄とバッテリーを組んで28勝、防御率1.09で最優秀防御率。42年には兼任監督となり、選手が次々に応召して戦力が激減した44年には全35試合のうち31試合に登板して24完投、22勝、防御率1.56で最多勝、最優秀防御率の投手2冠、MVPに輝いた。

 プロ野球が中断すると宮城へ疎開。戦後、復帰を求められても拒否していたが、「タイガースが苦しんでいる。戻ってほしい」と頼まれ、

「僕、ちょっと東京に行ってくるよ」

 と夫人に言って家を出たのが46年9月。英語力を生かして進駐軍の仕事をしていたことから夫人は仕事だと思ったというが、仕事は仕事でも、手にした風呂敷に包まれていたのはグラブとスパイクだった。翌47年に38歳で兼任監督として復帰、阪神を優勝に導いて、2度目のMVPに。2リーグ分立の50年には毎日へ移籍し、松竹との日本ワールド・シリーズ、つまり第1回の日本シリーズでは第1戦(神宮)の延長12回を投げ抜いて完投勝利。始球式を行ったGHQのマーカット少将は友人で、「ボゾー、勝算はあるか?」と問われ、「強いほうが勝つさ」と答えたという。すでに42歳だった。

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最終更新:11/10(日) 11:05
週刊ベースボールONLINE

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