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山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.5「初年度3勝に膨らむ夢と、立ちはだかりはじめた現実の壁」

11/10(日) 17:30配信

WEBヤングマシン

1992年はGP125で4勝も暗雲が……

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代にその総責任者を務め、国内外にその名を広く知られた山田宏さん。2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田さんに、かつてのタイヤ開発やレース業界にまつわる表や裏の話をあれこれ語ってもらいます。今回は、世界選手権に乗り込んだ山田さんたちブリヂストンに訪れた試練について。

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TEXT: Toru TAMIYA

何を食べたかも覚えていないほどの目まぐるしさ

ブリヂストンがロードレース世界選手権(WGP)での挑戦をスタートした1991年は、そのきっかけとなったテクニカルスポーツ(現在のTSR)の上田昇選手に加えて、レーシングサービス業務を請け負ってくれたブリヂストンドイツの要請で、ドイツ人のピーター・エッテル選手をサポートして、GP125を中心に活動していました。結果的には上田選手が2勝、エッテル選手が1勝で、ブリヂストンとしては3勝(GP125は全13戦)。参戦初年度ということを考えれば、まずまず満足できる結果でした。

その一方で、じつはブリヂストンタイヤはGP250にもスポット参戦しました。ライダーはJhaレーシングの小園勝義選手。全日本ロードレース選手権でも、ブリヂストンタイヤで戦ってくれていたライダーです。ブリヂストンとしては、1987年にワイルドカード枠で世界選手権日本GPのGP250に参戦した小林大選手が優勝。全日本では1989~1991年まで連続で、岡田忠之選手がGP250クラスのチャンピオンを獲得していたので、GP250タイヤの性能は悪くないという認識でした。WGPに参戦を開始してみて、より上のクラスで戦いたいという想いが少しずつ芽生えてきたこともあり、1991年のシーズン中盤からは、フル参戦したGP125よりもスポット参戦だったGP250のほうが記憶に残っています。

記憶が曖昧ということで言えば、現在の私はかなりの料理好きとしてもレース関係者などに知られていますが、初年度のWGPは食べ物がどうのなんていう余裕はほとんどなく、サーキットで何を食べたかなんていう記憶はほとんどありません。唯一覚えているのは、あれはたしかミサノでの第5戦イタリアGPだったと思うのですが、テクニカルスポーツのキャンパーで白飯と味噌汁を食べさせてもらい、あまりの美味さに感激したこと。たぶん、日本を離れてから2週間くらいは経っていたんだと思います。とはいえあれも、レースが終了した翌日だったはずですが……。

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最終更新:11/10(日) 17:30
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