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白洲次郎 ジーンズ姿に「米国、何するものぞ」の気概

11/14(木) 18:09配信

NIKKEI STYLE

《ダンディズム おくのほそ道》

 19世紀の英国からフランスへと広がったダンディズムとは、表面的なおしゃれとは異なる、洗練された身だしなみや教養、生活様式へのこだわりを表します。服飾評論家、出石尚三氏が、著名人の奥深いダンディズムについて考察します。

【写真はこちら】ダンディズム おくのほそ道 白洲次郎のジーンズ

■英国留学でたたき込まれた紳士道

 英国仕込みのダンディズムを貫いた男の代表格といえば、実業家の白洲次郎が真っ先に頭に浮かびます。日本人としては珍しく、キングス・イングリッシュに巧みだったのは、よく知られているところでしょう。

 白洲次郎の英語は幼少の頃から仕込まれたもので、それは祖父の白洲退蔵が「神戸女学院」の設立に関係していたから。ここの外人教師が白洲家に寄宿していた時代があったのです。

 そもそも、次郎の父、文平自身が明治のはじめにアメリカとドイツに留学していました。巷間(こうかん)、次郎のキングス・イングリッシュは次郎の英国留学と結びつけられがちですが、それ以前の家庭環境がこの上なくハイカラであったことを考慮すべきでしょう。

 次郎は1921年、19歳のときに渡英しました。その後ケンブリッジ大学へ入学。同じ年に高級車「ベントレー」を購入しています。同級生と円滑につきあうため、というのがその理由。当時のケンブリッジの学生には貴族の子弟が少なくありませんでした。彼らと対等に接するうえでベントレーが恰好(かっこう)のオモチャであったのでしょう。

 次郎は同級生から多くのことを学びました。なかでも生涯の友となったストラフォード伯爵家の御曹司ロバート C. ビング氏は大の車好きでした。寄宿舎では彼から車、紳士道、教養などをたたき込まれたといいます。

■サヴィル・ロウの「ヘンリー プール」を贔屓に

 紳士のスタイルもそう。たとえば、スーツはサヴィル・ロウで誂(あつら)えるものだ、とか。そのサヴィル・ロウのスーツはほとんど一生着ることになっているものだとか。

 次郎は、サヴィル・ロウの「ヘンリー プール」を贔屓(ひいき)にしていたようです。おそらく然るべき人物の紹介で、ヘンリー プールを訪れたものと思われます。これは京都のお茶屋さんに似ており、サヴィル・ロウの一流テーラーに飛びこみで、というのは珍しい。紹介があって行くのが普通のことです。

 ちなみに白洲次郎も通ったヘンリー プールについてですが、創業は1806年。初代のジェイムズ・プールがオールド・バーリントン・ストリートに店を開きました。彼は当時の軍服を縫うのに長けていて、ナポレオン三世の御用達に。たいへんなおしゃれさんで知られたウージェニー妃のお召し物も仕立てています。

 その腕を見込まれて1869年にはビクトリア女王に仕える者たちの宮廷服を依頼されました。黒いヴェルヴェットのテールコートを仕立て、ビクトリア女王もご満悦であったといいます。後のエドワード七世は皇太子時代に略式の夜会服を所望されました。そこで仕立てた「テールレスイブニング」が現在のディナージャケットの前身です。

 かようにヘンリー プールは王室とも縁の深い、まさに大英帝国を代表するテーラーなのです。かのウィンストン・チャーチルもまた、この店の顧客であったと伝えられています。

 本場で英国紳士のスタイルの洗礼を受け、それをすっかり我が物としてしまった白洲次郎ですが、装いでもう一つ、有名なエピソードといえば、日本人ではじめてジーンズをはいた男と言われていることです。ただし、これには少し、説明が必要でしょう。

 「白洲次郎のジーンズ」の時代背景といえば、昭和25年(1950年)のことです。次郎は当時の吉田茂首相の特使として、池田勇人大蔵大臣に同行して羽田空港からアメリカに飛び立ちました。翌年の「サンフランシスコ講和会議」の下打ち合わせであったらしく、宮沢喜一大蔵大臣秘書官も一緒だったといいます。このときの次郎のいでたちはダークなスリーピース・スーツに、黒のソフト帽、小紋柄のネクタイ、というものでした。

 この機内でちょっとした出来事がありました。食事後、池田勇人がつま楊枝をくわえました。すると後ろの席にいた次郎が、そのようじを取り上げたというのです。これはたぶん、池田がアメリカで恥をかかないための配慮だったのでしょう。時の大蔵大臣が、ようじをくわえるようなみっともない格好を見せるな、というわけです。

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最終更新:11/14(木) 18:09
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