ここから本文です

「神事」「神祭り」だけではない「大嘗祭」に隠された最大の謎

11/14(木) 17:30配信

新潮社 フォーサイト

 大嘗祭(だいじょうさい)が、いよいよ11月14日、15日に執り行われる。即位後最初の新嘗祭(しんじょうさい、にいなめさい)を、大嘗祭と呼ぶ。天皇にとってもっとも大切な1代1度の祭事だ。また、毎年行われる新嘗祭は、新穀を天神地祇にお供えし、そのあと天皇みずから食す神事(共食)で、「共食」そのものが、重要な呪術の1つなのだ。たとえば初代神武天皇がヤマト入りするとき、天香久山の埴土(はにつち)を用いて造った土器に神饌(食べ物)を盛り、神に供え、共に食したことで、決して負けぬ体になったという。要するに大嘗祭とは、天皇が即位後、はじめて神と食事をともにする神事といえよう。

 ただし、大嘗祭には、いくつもの謎が隠されている。たとえば、大嘗殿の内陣には、敷き布団や枕、掛け布団(衾=ふすま)などの小道具が備わっているが、それらを使って具体的にどのような神事が執り行われているのか、秘密にされている。しかも「誰を祀っているのか」さえ、本当のところは分かっていないのである。

 平安時代に記された文書には「天神地祇(要は八百万の神々)」や「至尊(しそん)=もっとも貴い神」を祀るとあるが、神の名を挙げていない。

 即位儀礼が複数あることも奇妙だ。『神祇令』(律令)の規定には、践祚(せんそ=即位)と大嘗祭の2つを執り行うことが定められ、古くは八十島祭(やそしままつり)も、即位儀礼の1つに数えられていた。その理由が、分からない。

 15世紀に一条兼良は『御代始鈔』(みよはじめしょう)の中で、「践祚」は唐風、「大嘗祭」は国風(伝統的)と解釈した。この発想が、江戸時代に至るまで通用し、さらに、現代に至ってもほぼ踏襲され、複数の儀礼が並存する理由と考えられている。

 しかし、もちろんこれで結論が出たわけではない。


■大嘗祭が整った時代は? 

 大嘗祭をめぐっては、戦前に、折口信夫らの民俗学的な立場からの発言が目立ち、史学者の発言は少なかった。儀礼の内容がほとんど公にされなかったこと、残された史料が少なく、天皇の権威と直接かかわっていたため、なかなか研究は進捗しなかった。現在に至っても、大嘗祭の謎は、解けないでいる。

 このような状態に批判的だった岡田精司は、自由な視点で古代祭祀の研究を進めるべきと主張し、宮廷祭祀の科学的な再検討を促した(『古代祭祀の史的研究』塙書房)。その上で、大嘗祭は、本当にかつて信じられていたような「律令以前からの伝統的儀礼」だったのか、と疑念を抱き、斬新なアイディアを提供している。

 まず岡田精司は、「大嘗祭の始められた時期」に注目し、それまでの常識を疑った。

 通説は、大嘗祭儀礼の完成を天武天皇の即位の時点と考えてきた。その理由は、『日本書紀』天武2年(673)12月条に、「大嘗(おおにえ)に仕える神官に、録を賜った」と記してあるためだ。この記事から、「前の月(11月)に大嘗祭が執り行われて、その褒美が出た」と類推できる。また、持統5年(691)11月条に「大嘗す」とあり、天武と持統の夫婦の時代に大嘗祭の儀礼が整ったと考えられる。天武天皇が大嘗祭を始め、天武崩御ののち即位した持統が、これを整理し継承したことになる。

 ただし岡田精司は、今日につづく「大嘗祭」は、持統天皇の代から始まったのではないかと考えた。そもそも、この時代、「大嘗」と「新嘗」の区別は確立されていなかった。そのため、天武天皇の時代の「大嘗」は、1世1度の大嘗祭ではなく、1年1度の新嘗祭だった可能性が高いというのだ。律令制度が整いつつある段階で、天武が新たな皇位継承のシステムを準備しつつあったとしても、はっきりとした形で本格的に大嘗祭が整ったのは、持統天皇の時代だという(前掲書)。

 筆者も、この推理が正しいと思う。天武と持統の間には、史学者たちが見逃してきた大きな断層が横たわるからだ。


■伊勢神宮整備の理由

『日本書紀』は、天武天皇と持統天皇の睦まじい様子を強調する。しかしこれは、かえって不自然で、夫婦の仲を礼讃される天皇は、他に例がない。持統天皇は天武崩御の直後、実の姉の子・大津皇子を冤罪で殺して、息子の草壁皇子を皇位につけようとした。この時代は律令整備のために例外的に天皇の独裁が認められていたから、みな血眼になって玉座を奪い合った。権力闘争渦巻く時代の「おしどり夫婦」はじつに怪しく、『日本書紀』は何かを隠している。

 大嘗祭は、この権力闘争の中で勝利した持統天皇が、「正当性」「正統性」を証明するために編み出したのではあるまいか。そう思う根拠の1つは、大嘗祭と伊勢祭祀が、よく似ていて、しかも伊勢神宮も天武ではなく持統天皇が整備した可能性が高いからだ。

 伊勢神宮は5世紀後半の雄略天皇の時代に整えられたと考えられている。伊勢神宮にまつわる記事が、雄略紀に集中しているためだ。ただし、今日のような形に整備されたのは、天武・持統朝と考えられるようになってきた。さらに、持統天皇の時代に、伊勢神宮が整えられたとする説が登場した(上田正昭『古代国家と宗教』角川書店)。持統3年(689)4月、皇太子・草壁皇子(天武と持統の子)が亡くなったとき、柿本人麻呂は挽歌を作り、その中に、「天照(あまて)らす 日女(ひるめ)の尊」が登場する。上田正昭はここに、皇祖神で太陽神の天照大神(あまてらすおおみかみ)が創作され、同時に伊勢神宮が整ったという。その通りだろう。

 連載中述べてきたように、持統天皇の父・天智天皇は弟の天武天皇とは犬猿の仲だった。持統天皇と藤原不比等は本来男神だった太陽神・天照大神を女神にすり替え、その上で、持統自身を天照大神になぞらえることによって、「天智系の女帝から始まる(観念上の)新たな王家」を創始し、天武の王家を否定したわけだ。そして、この神話を世に知らしめるために、伊勢神宮は整備されたのだろう。


■なぜ童女か

 大嘗祭と伊勢祭祀は、よく似ている。そっくりな「秘密」を抱えている。それが、祭祀の中で重要視(特別視)されている2人の童女の存在だ。伊勢の場合は「大物忌(おおものいみ)」、大嘗祭の場合は「造酒童女(さかつこ)」と呼ばれている。彼女たちが祭祀の先頭に立ち、秘密の神を祀っている。

 伊勢の大物忌は本殿床下に隠されてある秘中の秘・心の御柱(しんのみはしら)を唯一祀ることができる。心の御柱に御饌(みけ=神に捧げる食べ物)をお供えする役目だ。大嘗祭の造酒童女も、祭祀の準備段階から、重要な役割を担う。

 なぜ、童女が天皇家の大切な祭りで活躍するのかといえば、童子や童女は「鬼と対等な力をもつ鬼」と信じられていたからだろう。王家に期待された呪術の根源には「恐ろしい祟り神(鬼)を調伏する力」が横たわっているし、天皇自身も荒々しい鬼(祟る神)そのものだから、恐れられる。日本の「お祭り」の原点と目的は、人びとに災いをもたらす恐ろしい神(疫神や災害などの自然の猛威でもある)を、いかに鎮めるかにあり、だからこそ、王家最大の神事に、「恐ろしい鬼と同等の力をもった童女」が求められた。

 そして、ここで強調しておきたいのは、持統天皇が「天照大神(持統)から始まる新たな王家」を創建したことによって、天武から伝わってくる「天皇霊」が、恨む恐ろしい存在に変化していただろうことだ。だから、伊勢神宮や大嘗祭で鎮魂する必要に迫られていたのかもしれない。伊勢神宮の御神体は「お棺」の形をしていて、20年に一度の遷宮祭は喪葬に似ているのだという。伊勢神宮は天武の王家の墓場ではなかったか。伊勢に歴代天皇がほとんど近寄らなかった理由も、これで分かる。

 大嘗祭が秘密めくのは、このような歴史が隠されていたからかもしれない。

関裕二

最終更新:11/14(木) 17:30
新潮社 フォーサイト

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事