ここから本文です

有藤道世、弘田澄男&横田真之「オリオンズの星となった高知の“いごっそう”たち」/プロ野球20世紀の男たち

11/15(金) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

【高知県】“いごっそう”打線を支える“火消し役”/都道府県別ドリームチーム

先陣を切った“ミスター・ロッテ”

 今日、11月15日は旧暦で坂本龍馬の誕生日であり命日なのだそう。龍馬といえば土佐、現在の高知県が誇る幕末の英雄だが、プロ野球の世界では、どういうわけか、高知県の出身で、ロッテで活躍した好打者が多い。前身の毎日にも、のちに巨人などで指導者としても手腕を発揮した須藤豊がいたが、やはり筆頭格はチームがロッテとなった1969年に入団した有藤通世(道世)だろう。

 高知高では2年、3年と夏の甲子園に出場。最後の夏に高知高は優勝したが、有藤は初戦の第1打席で顔面に死球を受けて入院、大会の後半にはベンチ入りを志願するも許されず、ベンチの外から歓喜を見守った。近大を経てドラフト1位でロッテへ入団すると、背番号8を与えられるなど期待を受ける。そして1年目から三塁のレギュラーとなり、21本塁打を放って新人王に。翌70年には初の全試合出場で打率3割もクリア、リーグ優勝に貢献したが、日本シリーズではV9巨人に敗れる。悲願の日本一を成し遂げたのが74年だ。中日との日本シリーズでは打撃賞と技能賞に輝き、

「高校時代の仲間に、『お前も、やっと日本一になったな。甲子園は出てなかったからね。“日本一仲間”と認めてやる』と冷やかされた」(有藤)

 と笑う。その前年、73年には金田正一監督が就任。「有藤は長嶋(茂雄。巨人)の後の、日本一のサード。長嶋が“ミスター・ジャイアンツ”なら、有藤は“ミスター・ロッテ”や!」と事あるごとに言い続け、それが定着した。ロッテ元年に入団した有藤は、“ミスター・オリオンズ”ではなく、やはり“ミスター・ロッテ”なのだろう。186センチの長身は当時の内野手では別格で、三塁守備もダイナミックで華があった。

 その74年の日本シリーズでMVPに輝いた“突貫小僧”弘田澄男も高知県の出身で、高知高の後輩でもある。社会人の四国銀行では、

「そろばんが得意で、手先が器用だったこともあって札束を数えるのは名人芸(笑)」(弘田)

 だったというが、ドラフト3位で72年に入団。1年目から一軍に定着、2年目のキャンプで就任したばかりの金田監督に認められたが、そのキッカケは“食べっぷり”だった。金田監督のキャンプ名物は走り込み。ほとんどがバテバテで食欲も落ちる中、金田監督は「選手は食べてナンボや。おいしいものを品数たっぷり作るから、1時間かけて、ゆっくり食べろ」。やはり多くが最初は胃が受け付けず、ほとんどが半分ほど残す中で、投手の八木沢荘六と弘田だけがペロリと平らげたという。

 これで背番号も急遽、35から3へと変更されて、そのまま外野のレギュラーに。迎えた73年は、7月11日の日拓戦(神宮)でサイクル安打を達成。有藤とは対照的に163センチと小柄だったが、その小さな体を目いっぱい使ったフルスイングが魅力で、弘田いわく“イケイケ打法”で好球必打、リードオフマンとして打線を引っ張っていく。

1/2ページ

最終更新:11/15(金) 11:16
週刊ベースボールONLINE

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事