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ローマ教皇フランシスコの長崎訪問:現在の悲観的核情勢に関して強いメッセージを

11/19(火) 15:02配信

nippon.com

朝長 万左男

念願だった日本訪問

ローマ教皇ベルゴリオ・フランシスコの訪日が近づいてきた。11月23日から26日まで、東京、長崎、広島、東京の順に訪れ、バチカン国元首として天皇、首相を公式訪問し、全国のカトリック信者、長崎・広島の原爆被爆者、学童、学生など幅広い国民に接する。ご高齢にもかかわらず精力的な行動である。

イエズス会神父として出身地のアルゼンチンで働いていた若い頃は、フランシスコ・ザビエルが布教した日本に憧れ、いつか宣教に携わることを念願としていたという。だが、その夢は健康問題で実現しなかった。初の南米出身者として初のローマ教皇になられたことで、いよいよ「日本への旅」が実現することとなった。

苛烈だった長崎信徒への弾圧

1540年にパリで設立されたイエズス会は、ローマ教皇の認可を受けて1549年にザビエルを日本へ派遣し、カトリックの日本布教が始った。これは15世紀初頭に大航海時代が始まって約150年後のことであり、ヨーロッパによる日本への初の文明的接触ともなった。キリスト教の布教と日欧貿易の開始、および鉄砲の伝来は、世界史的にも日本の歴史においても大きな転換点であった。

日本はまだ戦国時代のまっただ中にあり、虐げられた一般民衆のキリスト教による魂の救済に対する反応は大きく、驚くべき受洗者数の増え方を示したのである。布教は大名層もへも及び、日本で最初にキリシタン大名となったのは肥前大村(現・長崎県大村市)の領主、大村純忠であった。島原の有馬氏の出身である。大村領では急速にカトリック化が進み、江戸時代初頭には人口6万人のほとんどが信者となっていた。

大村・有馬・大伴の3大名は1582年、遣欧少年使節団に親書を託し、長崎港から送りだした。1585年、彼らはローマで教皇グレゴリウス13世に謁見する。これは日本人がヨーロッパに足跡をしるした最も早い事例となった。

しかし、その後の日本におけるカトリックとその信者の運命は暗転し、過酷なものとなった。豊臣秀吉の時代に禁教令が敷かれ、長崎の西坂における26聖人の殉教が逆境の始まりとなった。徳川時代となった1613年、家康により禁教令が全国に出され、司祭、神父の活動は禁止され、信者への抑圧も熾烈なものとなり、棄教を強いられるようになった。その後17世紀中葉から18世紀には日本からキリスト教は消滅したかに見えた。

江戸期を通じて禁教令は続いたが、日本各地の信者の一部は、表面上は仏教徒を装いながら、密かに信仰を幕末に至るまで維持し続けていた。日本が再び諸外国に港を開いた明治維新前後には、長崎四番崩れが発覚し、多くの隠れキリシタンが捕縛され、西日本の各藩に流刑となり、多数の犠牲者を生んだ。西洋列強からの猛抗議で禁教令は1874年(明治7年)に完全に撤廃され、日本に信仰の自由が回復した。

フランシスコ教皇はこのたびの長崎訪問では、原爆落下中心地公園と、この西坂の丘の26聖人殉教地を特に希望して訪問されることになっている。

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最終更新:11/19(火) 15:02
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