ここから本文です

大日本帝国憲法で独立守ったエチオピア

11/20(水) 6:00配信

JBpress

 2019年のノーベル平和賞は、エチオピアのアビ・アハメド首相に授与されました。

 ところが受賞の報の直後、これに抗議する人々のデモと治安部隊が衝突し、67人が亡くなるという報道がありました。

【写真】2019年のノーベル経済学賞を受賞したアビジット・バナジー氏(インド人)とエスター・デュフロ氏(フランス人)

 全く穏やかではありません。ノーベル平和賞を受賞したはずの治安部隊側の発砲で死者が出ており、決して「平和な平和賞」ではないことが知られます。

 アフリカ大陸には国境がありますが、その多くは直線で仕切られています。例えばエジプト、リビア、スーダン、チャドなどの間の国境は、サハラ砂漠の上に引かれた真っ直ぐの線で、つまり架空の国境に過ぎません。

 誰が引いたか、と言えば、アフリカを植民地として権利を主張し合った西欧列強による分割で、実際のアフリカ社会は別のルールでできています。

 それは「部族社会」です。

 ルワンダ・ジェノサイドで対立した「フトゥ」「トゥティ」の両者は<部族>ではなく社会階層の違いでしたが、実質的にはグループとして対立し、3か月間で120万とも180万ともいわれる数の犠牲者が出ました。

 アフリカの対立は欧州の植民地化と部族の対立を考えねば、一般には何も分かりません。

 しかし、広いアフリカ大陸の中に、2つだけ、独立を保った国家があります。すなわち、ごく一時期の例外を除いて、アフリカ人の自治国家が継続した国があるのです。

 一つは「リベリア」ですが、これは名前から分かるようにリベラル、リバティ、つまり自由の名を冠した、アメリカ合衆国で解放奴隷となった人々がアフリカに戻ってアメリカ合衆国憲法を範として建国した国家です。

 リベリアの国旗は「星条旗」に星が1つだけというもので、建国の経緯もあって西欧列強の植民地化は避けられました。

 では問題がなかったかと言われると・・・そんなことは全くありません。

 米国で奴隷から解法された黒人支配階層は、元来このエリアの出身ではなく、様々な地域にルーツを持つ人々です。

 そのような「アメリコ・ライべリアン」と、そもそもこのエリア(胡椒海岸)に住む原住民との間には、差別と対立が発生します。米国からの移民と違い、欧化されておらず貧困層を形成していたためです。

 このアメリコ・ライべリアン支配は1980年にクーデタで終結しますが、以後、リベリア現地の部族間対立によって血で血を洗う凄惨な対立と内戦が断続しています。

 やはり「部族対立」がアフリカを特徴づけていることは間違いありません。

 このリベリアと似て非なる経緯を取ってきたのが、エチオピアの歴史にほかなりません。

■ 大日本帝国憲法とエチオピア独立

 リベリアは1847年、つまり19世紀半ばに、先進国の支援もあって作られたアフリカの拠点という性格がありましたが、それと全く事情が違うのがエチオピアです。

 エチオピアの歴史は古く、その国名はギリシャ語で「日に焼けた顔」を意味するアイティオプスに由来します。

 紀元前から栄えた古代エチオピア帝国は、3~4世紀にかけてキリスト教が伝来し、コプト派キリスト教国として大いに栄えます。

 このエチオピア・キリスト教徒たちはイスラム勢力と良好な友好関係を保ち、中世には独自のアフリカ・キリスト教大国として繁栄し、ローマ教皇などとも友好関係を取り結びました。

 近世のエチオピアが独立の命脈を保つことができた一因には、このキリスト教の背景が存在すると考えられます。しかし19世紀の帝国主義はそこまで甘くありませんでした。

 エチオピアも、とりわけ後発列強として植民地獲得を急いで、ソマリア、エリトリアを領有していたイタリアによって容赦なく植民地化の危機にさらされます。

 しかし1896年「アドワの戦い」でイタリア軍を下し、独立を守りました。

1/5ページ

最終更新:11/20(水) 10:30
JBpress

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事