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そのローマ教皇の死体はなぜ裁判にかけられたのか 世にも奇妙な「死体裁判」

11/23(土) 7:20配信

ナショナル ジオグラフィック日本版

9世紀の混乱物語る異様な歴史の一幕

 そのローマの漁師は、よほどたまげたに違いない。伝説によると、哀れな漁師がテベレ川で引き揚げたのは、元ローマ教皇フォルモススの死体だった。死後9カ月経った亡骸を掘り起こして裁判にかけるという、カトリック教会史上類を見ない異常事態の主役となってしまった教皇だ。その死体を川で見つけるなど、いったい誰が想像しただろうか。

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 フォルモススが死後に受けた屈辱の物語は、9世紀後半にイタリアで繰り広げられた権力闘争を象徴する歴史の一幕である。

 当時の教皇のリストを見れば、ローマとバチカンはキリスト教の説く協調とは程遠く、いかに混乱の時代にあったかがわかるだろう。西暦872年から965年の93年間に、ローマ教皇は24回も交代した(896年から904年の間は、ほぼ1年に1人のペース)。政治的陰謀と政情不安に揺れていた教皇職には、教皇位の剥奪、投獄、そして殺害がつきものだった。

皇帝をめぐる「王」と「公」たちの権力闘争

 9世紀後半、イタリア半島の各地で繰り広げられていた激しい権力闘争において、ローマ教皇は中心的な役割を担っていた。カトリック教会とイタリア王国の守護者であるローマ帝国の皇帝が、ローマ教皇から帝冠を授けられる形で認められていたためだ。

 西暦800年にカロリング家のカール大帝(シャルルマーニュ)が戴冠して以降、カロリング朝の王がローマ皇帝になっていたが、9世紀の後半になると広大なカロリング朝の領土は西・中・東の3つの王国に分割される。それとともに、スポレート公国など地方の国々が力をつけ始め、対立が激化していた。そこで、ローマ教皇はローマ帝国の有力な家同士の問題に堂々と干渉し、地方の権力争いに首を突っ込んだ。

 フォルモススは、教会でのキャリアをスタートさせた頃から、こうした複雑な争いに巻き込まれていった。テベレ川の河口にあるポルト教区の司教枢機卿として、布教のためブルガリアへ教皇の名の下に派遣され、同時にカロリング朝や東方領土の中心であるコンスタンティノープル(現トルコのイスタンブール)との外交折衝を数多くこなした。また、分割されたカロリング朝の東の国王で、ケルンテン公でもあるアルヌルフを支持していた。この東の王国が、ドイツの原型となる東フランク王国だった。

 だが、フォルモススの外交は上司には不評だった。アルヌルフはローマ皇帝につながるイタリア王の座も狙っていたのだが、時の教皇ヨハネス8世は、カロリング朝のように強い権力を持つ国の王がイタリア王の座につけば、ローマが独立性を失うと恐れた。そこで876年にフォルモススを破門して、教区から追放した。フォルモススと支持者たちは、腐敗と不道徳の罪で訴えられることを恐れてローマを離れ、のちにスポレート公となるグイード3世の庇護を受けた。

 彼らはその後、アルプス山脈の南にあるロンバルディアの北部に数年間身を隠し、ローマでの状況が好転するのを待った。

 883年、短期間在位した教皇マリヌス1世のもとでフォルモススは破門を解かれ、元のポルト司教に戻された。そして891年に死亡したステファヌス5世の後を継いで、フォルモススはローマ教皇に就任する。

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