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斉藤明夫&遠藤一彦「“横浜大洋ホエールズ”の二枚看板」/プロ野球20世紀の男たち

2019/12/3(火) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

斉藤明夫 口ヒゲがトレードマークの不敵なクローザー/プロ野球1980年代の名選手

ヒゲのクローザー&“横浜大洋”のエース

 1984年10月13日、ダントツの最下位に沈んだ大洋のラストゲーム。9回表二死、横浜スタジアムのマウンドに上がったのは平松政次であり、マスクをかぶったのは辻恭彦だった。長く大洋をエースとして支えてきた平松、そして阪神と大洋で23年間“ダンプ”の愛称で親しまれた辻。そんな2人のラストシーンだった。

 その光景を、2失点の好投で平松にマウンドを託しながら、ベンチに下がらず、右翼手として見守っていたのが遠藤一彦。平松が最後の打者を抑えたことで、遠藤の最多勝が決まった。平松と並ぶ2年連続2度目の最多勝。平松の引退登板は、どん底に沈み続ける大洋というチームを背負う、エースの“継承式”にも見えた。

 60年の初優勝、日本一を最後に、優勝から絶縁されたかのようだった大洋。特に投手陣は苦しい時期が長かった。大洋が川崎から横浜へ移転して「横浜大洋ホエールズ」となった78年は、遠藤のプロ1年目でもある。その78年に自己最多の16勝を挙げたのが、その前年の77年、つまり川崎ラストイヤーに新人王となったのが斉藤明雄(明夫)。1年目とは思えないマウンドさばきで、当時は深緑にオレンジ色というポップすぎるユニフォームだったが、それが一層、ふてぶてしさを浮き彫りにしていたようにも見えた。

 横浜へ移転したことで、ユニフォームも白地に港町の横浜らしいマリンブルーのものになり、知性ただようスマートな風貌の平松や遠藤が“着こなした”一方、斉藤は80年代に入り口ヒゲをたくわえて持ち味を維持、救援のマウンドに仁王立ち。気迫あふれるストレートに加え、緩いカーブと鋭いカーブを投げ分けて打者を幻惑した。

 80年はクローザーを担った遠藤は、長身を利した快速球と、阪神で村山実のフォークを受けていた辻の助言で習得した落差のあるフォークで、先発の軸として成長。この図式が定着したのは82年で、大洋は53勝のみだったが、もちろん遠藤と斉藤のリレーもあったとはいえ、遠藤は12完投で14勝、斉藤は5勝30セーブで、規定投球回にも到達して防御率2.07で最優秀防御率にも。翌83年は遠藤が18勝で初の最多勝、斉藤が10勝22セーブで初の最優秀救援投手に。平松に歴戦の傷跡が深くなっていく中で、1学年の違いはあったが、誕生日は2カ月ほどしか離れていない2人は、投手陣の二枚看板となっていく。

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最終更新:2019/12/3(火) 11:05
週刊ベースボールONLINE

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