ここから本文です

小林直己が演じた“禎司”と小説の“禎司”の違いは? 原作『アースクエイクバード』を読む

2019/12/4(水) 10:13配信

リアルサウンド

 現在、Netflixで公開中の『アースクエイクバード』は、日本在住経験のあるスザンナ・ジョーンズが2001年に書いた同名小説を原作にしている。本作でリドリー・スコットのプロデュースのもと、物語の核となる禎司役に挑戦したEXILE/三代目J SOUL BROTHERSの小林直己は、英語での演技と、日本独自のセクシーさを表現したその佇まいなどが内外で評価されている。

 物語の舞台は日本。通訳として暮らすルーシーが、カメラを持った謎の男・禎司に出会い惹かれていく。同時期に海外からやってきたリリーという女性とも友人を介して知り合い、外国暮らしの長いルーシーが彼女の家探しを手伝うなど面倒を見ているうちに、リリーも禎司と出会うことになる。やがてルーシーは近づいていく禎司とリリーに対しての嫉妬や焦燥感が大きくなっていく。そんなとき、リリーが行方不明になる……というものだ。

 スザンナは「日本の読者のみなさんへ」というこの本の前書きで、「本書の主人公は、もしかしたら東京そのものかもしれません」とも書いている。

 その東京を象徴しているのは、まさにヒロインのルーシーが焦がれる日本人男性の禎司だろう。そんな禎司とルーシーの小説の中の出会いのシーンはとてもロマンチックだ。映画『ブレードランナー』にも出てくる西新宿の超高層ビル街(ルーシーはこの街並みをほかの外国人のようにもてはやす気はないようだが)の京王プラザホテルの前で雨の中、水たまりに映るビルの明かりをカメラでとらえようとしている禎司を見て、ルーシーは一目で彼に惹かれるのだ。

 映画の中の出会いのシーンは原作とは少し違っている。確かに禎司は水たまりに映るビルを撮ってはいるのだが、それは晴れた空の下であり、禎司はすぐに自らルーシーにレンズを向ける。それは禎司の能動的な一面、もっと言えば少し攻撃的な一面も表していて、ルーシーは「許可とるべきじゃない?」と禎司に向かって話しかけることになるのだ。

 小説版のルーシーは、自らが彼のファインダーの中に入っていくのだ。夢中で撮影する禎司が見ている水たまりの中に自分の靴先をそっとしのびこませて。そのときの禎司のことをルーシーは「東京の夜を飾る彼のあまりの美しさに、わたしはそのまま通り過ぎることができなかった」と表現している。禎司の美しさを称えるのと対照的に小説の中のルーシーは、自分の見た目に自信がない描写も多く、禎司が自分の外見を気にせず、「わたしの皮膚の下にあるものを見ているような気がする」というところも好んでいるのだった。

 禎司は小説の中でしばしば「雨」と関連付けられる。初めて出会ったときのことも「禎司は雨で、雨だけでできていると思った」と思い出しているし、「髪や顔から雨が流れ落ちて」いることを、ルーシーはいつも見つめているのだった。

 こうした「雨」と禎司の関連性については、映画の中ではほとんど見られないのだが、もしもこのようなシーンがあれば、さらにロマンチックなのにと思うこともあった。しかし映画版では、ルーシーが禎司の「雨」のような美しさに見惚れているという部分がないことで、見え方が違ってくる部分もある。

 面白いのは、小説のルーシーにとって、彼女が思い出す禎司は、言葉を持たないということだ。あるときはルーシーは過去の禎司のことを考えるときに「禎司の声を思い出せないとしても、彼に声があったのは間違いないのだから、気持ちを集中させて耳を澄ますと、聞こえるのは、わたしたちの口からこぼれ落ちる雨音にも似たぱらぱらという音」とすら言っている。雨のように美しく、雨のように実態がないのが禎司とでもいうように。

 しかし、彼女が禎司に言葉を求めないのにも理由がある。彼女には、少女時代に7人いる兄との間で悲しい出来事があり、そのことをきっかけに「完全に口をつぐむ」ようになったからだ。言葉でコミュニケーションをとらなくても通じ合える禎司との関係性に崇高なものを感じていた。だからリリーと禎司が出会い、日常的な会話を交わしているところを見て、「彼をありふれた男にしてしまった」とショックを受ける。

 これ以外にも、小説の中の禎司は、映画の中よりも「ありふれた男」であると思える場面がある。それは、ルーシーが過去のもう一つの傷について、禎司に告白したところであきらかになる。そのとき禎司はルーシーのことを「君は少し変わってる」と言うのだが、このことでルーシーは「英語なら『ストレンジ』という言葉はさほど悪い意味じゃない。個人主義社会的で褒め言葉と受け取られることもある」、しかし「日本語なら」「あまりいただけない」とし、彼の心が離れていくのを感じるのだ。

 一方で、映画の中でもルーシーが同じ過去の傷を禎司に告白する場面があるが、映画の中の禎司は小林直己の存在感のある演技や、彼女の過去の傷に対する禎司の考え方が小説とは違った解釈になっていることが興味深い。映画の中の禎司は、ルーシーに「少し変わっている」とは言わず「今も思い出す?」と尋ねることで、「ありふれた男」になることを避けることができていたし、このシーンがあることによって、常に「死」がまとわりついたように生きているルーシーと、「死」がいつも近くにある(それは彼がルーシーに死んでいる叔母の写真を見せたことでもわかる)禎司の二人が、どことなくシンパシーを見出しているようにも捉えることができた。そう見えるのは、映画がルーシーの過去のトラウマだけではなく、禎司のトラウマにも焦点を当てているからこそだろう。

 筆者は、映画の中の禎司は、たくさんの小説や映画の中で女性が担ってきた「オム・ファタル/ファム・ファタル(運命の相手)」なのではないかと思っていたのだが、小説の中の禎司は、それとは別のことを象徴しているように思えた。単に「その実態が見えない」だけでは、「オム・ファタル/ファム・ファタル(運命の相手)」ではなく、もっと強い何かが存在している必要があるのかもしれない。

 そう思えた理由はいくつかあるが、小説の中のルーシーは、雨の中でロマンチックな出会いをしたからこそ、禎司の美しさだけを見て、彼の言葉や意思を「無」にしてしまうような、ある意味盲目的な部分も持っている。それは、多くの男性が、女性を女神のように崇めるからこそ、皮膚の下にある思いや意思を見ないできたのと似ている。一方でルーシーは、禎司の表面を女神のように崇めるからこそ、彼の中身に対しては辛辣で「ありふれた男」であることも見抜いているのかもしれない。そして「ありふれた男」は、「ありふれた罪」と重なることで、より「雨」のような存在になっていく。それは、小説が禎司にもルーシーの側にある危うい感情に、目をそらさずに焦点をあてた結果でもある。

 本作を見て、村上春樹の小説を思い出したという感想も見られたが、小説版のほうがその色合いは濃いのではないか。小説の禎司は、ルーシーの中で、ときおり降ってくる雨のような存在として、甘い感傷とともにこれからも蘇っては消えて、また蘇っては消えてというようなことを繰り返すのだろう。

 映画の中のルーシーは、冷静に禎司を見ているし、禎司もルーシーのことを知りたいと思い会話もしている。彼の言葉も声も思いだせるほどはっきりと聞いている。しかし、だからこそ禎司の意思を持った行動や、その裏にある思い、多くは見えないが確実に存在している過去のトラウマに、どんどん揺さぶられ、冷静なはずなのに徐々に自分を見失っていくし、同じように冷静に映画を見始めた観客もルーシーの気持ちを追体験をしてしまう。小林直己が演じた禎司は、甘い鑑賞で終わってしまうような存在ではなかった。

 だからこそ、ルーシーにも映画を見た観客にとっても、禎司を優しい雨のようなはかない存在と見るのではなく、忘れようのない「オム・ファタル/ファム・ファタル」として記憶してしまうのかもしれない。

 映画版の中で雨が印象的に出てくるシーンがある。終盤で家を訪ねてきたリリーとルーシーが感情を高ぶらせ口論し、その後帰っていくリリーを、ルーシーが傘もささずに追う場面であった。その雨は、小説に出てきた雨とは違い、ルーシーやリリーの体を容赦なく濡らすほど激しいものであった。

西森路代

最終更新:2019/12/4(水) 10:13
リアルサウンド

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

Yahoo!ニュースからのお知らせ