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野村忠宏は「自分の柔道」を貫いた。 五輪3連覇が重圧ではなかった理由

2019/12/5(木) 16:30配信

webスポルティーバ

PLAYBACK! オリンピック名勝負―――蘇る記憶 第17回

2020年7月の東京オリンピック開幕まであと7カ月。スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典が待ち遠しい。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あのときの名シーン、名勝負を振り返ります。

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 柔道男子60kg級の野村忠宏にとって、2004年のアテネ五輪はオリンピック3連覇がかかった大会だった。

 96年アトランタ五輪は、初出場ながら注目されていない気楽さもあるなかで、攻めの柔道を貫いて頂点に立った。

 連覇のプレッシャーが大きくのしかかった00年シドニー五輪は、相手にしっかり研究され、得意の背負い投げを出せない状況。それでも多彩な技を繰り出して、優勢勝ちの準決勝以外は、すべて違う技で一本勝ちを収める強さを見せつけて優勝した。

 だが、04年アテネ五輪では、"3連覇"の数字自体は大きなプレッシャーになっていなかった、という。

「いろんなところで『3連覇』と書かれても、『ふーん、言ってるな』程度の意識でした。自分の中では、誰もやっていない3連覇の記録は励みになったけど、それよりもモチベーションになったのは、前年の世界選手権大阪大会で感じた悔しさですよね。もう一度世界一になりたい、という気持ちのほうが大きかった」

 野村にとって3度目の挑戦は、前の2回とは状況がまったく違っていた。シドニー五輪後は現役を継続する決断ができず、柔道からも少し距離を置いた。結婚を機にアメリカに語学留学もして、そのブランクは2年間になった。

 アテネ五輪を目指すと決めてからも、2年2カ月ぶりの公式戦復帰になった02年11月の講道館杯では、準決勝で内柴正人に1本負けして5位に終わった。ポーランド国際に出場して5位に終わった03年3月には、「復帰は間違いだったのではないか」とも考えたそうだ。

それでも4月の全日本選抜柔道体重別選手権では3年ぶり4度目の優勝を果たし、世界選手権大阪大会の代表に選ばれた。だが、五輪前哨戦となるその大会では3回戦で敗退。銅メダルは獲得したが、敗者復活戦への出場が屈辱だったという。

 その敗戦が、次への強いモチベーションになった。

「世界選手権へ出る前はブランク明けで、代表権は取ったけど、実際に肌を合わせてみないとわからない面もあるので、今の世界の代表とどこまで戦えるのか、という不安はありました。でも、あそこで負けたことで『もう一度世界一になりたい』という強い気持ちが芽生えたし、自分の強さも再確認できました。『何もビビる必要はない』と思えたんです」

 04年4月の全日本選抜柔道体重別選手権で優勝し、アテネ五輪代表の座を手中に収めた。その後、プレッシャーを感じながら代表合宿で自分を追い込み、やるべきことはやったという自信も生まれてきた。

 天理大で行なっていた最終調整は、周囲が驚くほど完璧に仕上がっていた。だが、その最後の乱取りでアクシデントが起きた。四つん這いになった相手を引き上げて大外刈りに入ろうとしたタイミングと、相手が立ち上がろうとしたタイミングが合ってしまい、わき腹に相手選手の頭が激突。右肋軟骨を痛め、病院に駆け込む事態になった。五輪開幕の10日ほど前のことだった。

「最初はやっぱり、すごく焦りがありましたね。ケガをして2日間くらいは動けなくて何もできない状態で、日本を出発する前は大内刈りの打ち込みくらいしかできなかった。回転系の技は打ち込みもできなくて、やれたのは直線的な動きだけで不安になりました」

「ここまで仕上がったのになぜ......」と思った。だが、気を抜いた時のケガではなく、集中していた際の事故である。骨折や靭帯損傷といった重大なケガでもない。最悪の場合、痛み止めを打てば何とかなる、と思うことで開き直れた。

 アテネに入ってからも、ケガの公表はしなかった。だが、一本背負いと背負い投げを確認したとき、左からの投げには息が詰まるほどの痛みがあった。斎藤仁ヘッドコーチからは、準決勝まで左からの技は封印しろ、と厳命された。

 そんな状態にもかかわらず、アテネでの野村の強さは驚くほどだった。

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最終更新:2019/12/5(木) 17:24
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