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中曽根康弘が語った戦争体験 核武装を本気で検討したことも

2019/12/7(土) 7:15配信

デイリー新潮

 中曽根康弘・元首相が亡くなった。101歳。かつて取材で、「何歳まで頑張りますか」との質問に、「暮れてなお命の限り蝉時雨」と、心境を得意の俳句に託し述べていた。連続当選20回。議員在職56年。引退後も積極的に発言を続けていた。政治家としての志の原点は、遠く南の島での戦争体験に遡るという。

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中曽根康弘を支えた愛国心

 1947年4月、まだ29歳の青年だった中曽根氏は、「占領中は喪中だ」との考えから黒ネクタイで国会に初登院したという。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに英文の「建白書」を提出し、政策を痛烈に批判。当時から自主憲法制定を訴え、世間の耳目を引く活発さから「青年将校」「若武者」と呼ばれた。

 中曽根氏が内務省から海軍に志願し、戦地に赴いた経歴はよく知られているが、ではそのときに、彼が見たものはなんだったのであろうか。1941年11月、「台東丸」で広島の呉から出航、フィリピンのミンダナオ島ダバオに向かっている。

 中曽根氏の立場は「第2設営隊の主計長」だった。工員2千人を束ね、「敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにする」のが、その使命。パネルや散水車、地雷の撤去に必要な道具、零戦用の爆弾とガソリンを積み込み、14隻(せき)の船団で出航した。工員は民間からの徴用で、〈かなりの刑余者〉がいたという。中曽根氏は前科8犯、親分肌の「古田」を自室に呼び、班長に指名した(以下、〈〉内引用は著書『自省録―歴史法廷の被告として―』より)。

部下を失った戦争体験が原点に

〈「古田、おまえ、ずいぶん天皇陛下に迷惑かけたな。いよいよこれから戦争だ。おれも海軍のことはよく知らないが、おれの子分にならんか。おれも上州は国定忠治(くにさだちゅうじ)の血を受けた人間だ。どうだ」

 そう訊いたら、「へい、なりやす」という。「それじゃあ、おれの杯を受けるか」「いただきやす」となって、従兵に酒を持ってこさせて茶碗(ちゃわん)に入れて出しました〉

 こうして「義兄弟」を得た中曽根氏だったが、ボルネオ島バリクパパンへの移動中に、僚船4隻が撃沈される。さらにバリクパパンへの上陸間際、オランダとイギリスの巡洋艦、駆逐艦が奇襲、魚雷と砲弾の嵐の中でさらに4隻を失った。中曽根氏が乗船していた船は、この攻撃で炎に包まれた。

〈あたりはもう阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図でした。砲煙弾雨の中、梯子段(はしごだん)を降りて懐中電灯で部屋を見ると、みんな手や足がふっ飛んでいる。血だるまになった人間が、「助けてくれ」とうめいています〉

 このとき、中曽根氏は盃を交わした古田班長の臨終を見届けている。古田班長は被弾し、「隊長、すまねえ」とだけようやく口にして、息を引き取ったという。海岸で荼毘(だび)に付した際、中曽根氏はこう詠(よ)んだ。

 友を焼く 鉄板を担(かつ)ぐ 夏の浜
 夏の波 敬礼の列の 足に来ぬ

 中曽根氏の志の源には、この苦い経験があった。

〈美辞麗句でなく、彼ら(戦友)の愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。「私の体の中には国家がある」と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです〉

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最終更新:2019/12/7(土) 7:15
デイリー新潮

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