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カタルーニャ独立問題が再燃、バスクの歴史は解決のヒントになるか

2019/12/8(日) 7:11配信

ナショナル ジオグラフィック日本版

バスクってどんなところ? 独自の文化と歴史

 スペイン北部のバスク自治州を旅すると、海岸の絶景や静かな農村の風景を楽しめる。そしてもちろん、バスクの人々にも出会えるだろう。その歴史は彼らの誇りだけではなく、抑圧と苦闘に満ちている。

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 バスク民族は、古くからフランス南西部とスペイン北東部にまたがる地域に暮らしてきた。この辺りは他の地域からはバスクと呼ばれ、彼ら自身はエウスカル・エリア(Euskal Herria)と呼ぶ。「エウスカル」はバスク語を意味する。バスク語はフランス語ともスペイン語とも、それどころか他のどんな言語とも、言語学的にはっきりと異なる。現在ではバスク人のおよそ28%がバスク語を話しているが、この言語がどこで生まれ、どう発達したのか、なぜ他の言語と大きく違うのか、正確にはわかっていない。バスク語には少なくとも6つの方言があるが、バスク人の多くは1960年代に発展した標準バスク語を話している。

 近年の研究で、バスク人は新石器時代の農耕民の子孫だと指摘されている。西ピレネー山脈から海岸線にかけて暮らすという地理的な条件によって、ヨーロッパの他の集団から遺伝的に孤立したのだという。暮らすには厳しい地形が多かったことから、他の地域から隔絶し、それがバスクのたどる道のりを決定づける一因となった。例えば、紀元前196年にローマ人がこの地域に侵入したとき、バスク人は今のスペイン北部に暮らしていたが、ローマにも、その後やってきた勢力にも征服されることはなかった。

 紀元824年ごろから、バスク人が多数を占める中世国家、ナバラ王国ができ、代々の君主が治めた。1515年、ナバラ王国の大部分がカスティーリャ王権下に編入され、現在のスペインとなる領域の一部になった。その後比較的独立を保った期間ののち、1839年にバスクの自治はマドリードのスペイン政府によって縮小され、後に撤廃された。やがてバスク民族主義運動が高まり、政治的団結を主張し、国として分離することを強く訴え始めた。1930年代のスペイン内戦中、フランシスコ・フランコはバスク語の使用を禁じ、バスク人たちの権利を奪い、バスクの都市ゲルニカの破壊を命じた。

 フランコ体制下でバスク人は弾圧に苦しんだ。これに対抗しようと、バスクの分離独立を掲げる勢力が1959年に過激派組織「バスク祖国と自由」(ETA)を結成。ETAは数十年にわたってテロ事件を起こし、最終的に800人以上の命を奪った。2018年5月、ETAは解散を発表した。

 その後、スペインはバスク自治州に比較的大きな経済的・政治的自治を与え、バスクは民族意識が異なることを認めた(バスク自治州はバスク地方の3県から成り、独自のアイデンティティーを持つが、正式な州都は決まっていない。実質的な州都はビトリア=ガステイスだが、州で最大の都市はビルバオだ)。1975年にフランコが死去してから、バスク語は広い範囲で復活し、完全な自治国家になることを訴えるバスク人はほとんどいなくなった。

 一方、やはりスペイン国内の民族集団であるカタルーニャ人たちは、訴えを続けている。2017年にカタルーニャ州が独立の是非を問う住民投票を行った際、スペイン政府は投票を違法と宣言し、州の自治を停止、運動の幹部らを投獄した。2019年10月、幹部9人が長期の刑を言い渡されると、大規模な抗議デモが起こり、スペイン政治の今後に新たな疑問を投げかけた。

 バスクの成功例は、解決策になりうるのだろうか? 「なるかもしれない」と書くのは、ロイター通信のソーニャ・ダウセット記者だ。だが、それにはかなりの費用がかかる。カタルーニャに平穏をもたらすには、バスクの自治がモデルになりうる、と政治家たちは示唆する。しかし、カタルーニャ人が進むべき道をバスク人の経験が示してくれるかどうかは、いまだ不透明だ。

文=ERIN BLAKEMORE/訳=高野夏美

最終更新:2019/12/8(日) 7:11
ナショナル ジオグラフィック日本版

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