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石毛宏典「西武黄金時代のすべてを知る男の証言」/プロ野球20世紀の男たち

2019/12/9(月) 11:05配信

週刊ベースボールONLINE

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

野村克也が語る「清原和博」

「根本さんから広岡さん、絶妙の順番」

 1980年代から90年代にかけての西武の黄金時代については、たびたび触れてきた。秋山幸二、清原和博、デストラーデの“AKD砲”、工藤公康と渡辺久信ら投の左右両輪、底力となった辻発彦ら打の名バイプレーヤーに、次々に登場した強力投手陣、そして監督の広岡達朗と森祇晶。ただ、初優勝の82年から、リーグ5連覇を成し遂げた94年まで、一貫して西武の第一線で活躍を続けたのは、石毛宏典だけだろう。

 どん底の西武へドラフト1位で81年に入団して新人王。そのままレギュラーを維持し、86年には無冠ながらMVPに輝くと、チームリーダーとして西武を引っ張り続けた。西武に在籍した14年間で、打撃の数字には目を見張るようなものはないが、これはチームプレーに徹したことを意味する。出場の最少は90年の100試合で、次がラストイヤー94年の111試合。この2年を除いて、すべて120試合を超えている。この数字は驚異であり、そして重い。リーグ優勝の経験は11度、日本一は8度。もちろん、当時の西武と同じ数字だ。まさに西武黄金時代のすべてを知る男といえる。

 入団したときの監督は根本陸夫だったが、

「監督としては優勝できなかったけど、その後、管理部長をしていた時期を含めて、西武が長く強かった理由というと、やっぱり根本さんなのかな。新人の補強も根本さんの人脈、裏技を使って、秋山や伊東勤、工藤と集めていた。それで、ある程度、道を作ってから、これだけの選手を俺では料理できないから、と言って、広岡さんを呼んで教育を託したという感じですよね」

 2年目の82年に監督となったのが広岡だ。巨人で名遊撃手として鳴らした広岡に、遊撃守備を徹底的に指導された。1年目からダイヤモンド・グラブに選ばれたプライドから、当初は反発したが、しだいに心酔していく。

「“昭和の名将”は広岡達朗しかいない。本来、プロ野球は技術屋の集団であるべきなんですよ。ただ、プロに入る人間が、すべて完成されているわけではない。あのときの西武はバラバラで、選手の技術やレベルも十分じゃなかった。それを、どう節制させ、どう指導すれば一人前になるのか。そういう眼力と手腕があった。個々のスキルアップを徹底的に行い、それでチーム力を上げ、勝てる集団にした。それだけの技術を持った“技術屋”でもありましたね。いまプロ野球を見回しても、技術を教えることができる指導者は、そうはいない。根本さんの人集め、広岡さんの教育。絶妙の順番でしたよね」

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最終更新:2019/12/9(月) 11:53
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