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山田宏の[タイヤで語るバイクとレース]Vol.7「ブリヂストンの大ピンチを救った東雅雄」

2019/12/10(火) 5:31配信

WEBヤングマシン

初のチャンピオン獲得は鹿に阻まれた!?

ブリヂストンがMotoGPでタイヤサプライヤーだった時代に総責任者を務め、国内外に名を知られた山田宏さん。2019年7月にブリヂストンを定年退職された山田さんが、かつてのタイヤ開発やレース業界について回想します。今回は、ブリヂストンのロードレース世界選手権における低迷と返り咲きの“重要人物”となった、東雅雄選手の話を中心に……。

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TEXT: Toru TAMIYA

「今度はどんな日本人が来るんだ?」と注目された時代に、契約ライダーがゼロ

1997年は、第4戦以降に契約ライダーがだれもいなくなるという、ロードレース世界選手権(WGP)にブリヂストンがフル参戦を開始してからもっとも厳しいシーズンとなりました。しかもこの年は開幕前にも、予想外の出来事により大きなチャンスを失っていました。

当時、全日本ロードレース選手権からWGPにステップアップしてきた日本人ライダーが、いきなり速さを発揮して活躍することがとても多く、「今度はどんな日本人が来るんだ?」とか「速いライダーを紹介してくれ!」というような話が私のところにもたくさん来ていて、ライダーだけでなく私もチームからモテモテの状態でした。そんな中、1996年の全日本GP125チャンピオンとなった東雅雄選手が、翌年のWGP参戦を希望。全日本時代にブリヂストンユーザーだったことから、私が新たな所属チームとの交渉を務めました。

簡単に言うなら、マネージャーのような業務です。いろいろなチームが東選手を狙っていましたが、そのうちのひとつが、1996年までブリヂストンタイヤを履いてWGPを走っていた選手が引退して設立したオランダの新チーム。ブリヂストンとつながりがあったことなどもあり、そのチームと東選手は契約することになりました。もちろん私がブリヂストンとチームの契約を担当しているわけですから、「タイヤはうちから供給するから、一緒にやろうね」というようなことを話しながら、いろんな交渉をまとめていきました。

ところが、1997年シーズンの開幕直前テストがスタートする2月ごろになって急に、そのオランダチームのオーナーが、「ごめん、タイヤはやっぱりミシュランと契約する」と一方的に言ってきたのです。私も東選手も、そんなことが許されるわけないと思ったのですが、じつはその段階でブリヂストンとそのチームはまだ契約を交わしておらず……。世界の場で我々の主張が認められるわけもなく、ブリヂストンとしては東選手を引き抜かれただけという格好になってしまったのです。やっぱり日本人特有の口約束で安心せず、早い段階で正式な契約書を作成しておくことが大切なのだと、そのときに身をもって痛感させられることになりました。そしてその後に、契約ライダーゼロの時期を迎えるわけですから、踏んだり蹴ったりのシーズンでした。

使い慣れたブリヂストンタイヤでWGP初年度を戦う気持ちでいた東選手にも、申し訳ないことになってしまったのですが、その段階から我々にできることはありませんでした。とはいえミシュランのGP125用タイヤも、青木治親選手が1995年と1996年に2年連続チャンピオンを獲得。実績はありましたから、「本当に申し訳ないが、とにかく1年間は頑張って!」と励ましました。しかし後から聞いた話では、ミシュランは東選手とは合わなかったようで……。「ミシュランは乗り手やマシンを選ぶ」というようなことを言う人も多く、他のミシュランユーザーでも、マシンの仕様を色々変えて苦労していたチームもありました。もちろんこれは、その当時のGP125用タイヤは、という話ですが。

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最終更新:2019/12/10(火) 5:31
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