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中曽根康弘元総理は「改憲を諦めたことは一度もない」執念の人だった

2019/12/11(水) 5:57配信

デイリー新潮

 都内の病院で11月29日、老衰のため亡くなった中曽根康弘元総理(享年101)。昭和時代の総理の座を知る最後の生き証人であった。

 国鉄、電電、専売の三公社民営化や、アメリカのレーガン大統領と築いた信頼関係など、政治史に赫々たる足跡を遺した中曽根氏。だが、28歳で初当選して以来、20期56年に及ぶ政治家人生には、当然、山もあれば谷もあった。

 政治ジャーナリストの泉宏氏によれば、

「弱小派閥を率いていた中曽根さんが総理大臣にまで上り詰めることができた最大の転機は、1980年5月16日に可決された内閣不信任決議でしょう。この日、社会党が大平正芳内閣の不信任決議案を上程。中曽根派は三木派や福田派とともにこれに同調して採決を棄権し、赤坂プリンスの旧館に立て籠ったのです」

 ところが、土壇場になって、議場に割れんばかりの拍手が沸き起こる。中曽根氏が議場に舞い戻ってきたのだ。自民党にいながら野党と協調はできないという意思表示だった。

「あの時“憲政の常道”と叫びながら戻ってきた中曽根さんの姿が目に焼き付いて離れません。もし彼があのまま三木さんや福田さんに取り込まれていたら、その後の中曽根政権は誕生していなかった。彼は“政界の風見鶏”と揶揄されてきましたが、堅固な軸があった」

桁違いの裏金

 中曽根総理の誕生は、それから2年後の82年。

『中曽根康弘「大統領的首相」の軌跡』の著者で、中央大学教授の服部龍二氏は、総理としての中曽根氏の業績をこう評価する。

「“三角大福中”の中で最後に総理になった中曽根さんですが、自らの政策を形にする能力は彼が最も優れていました。官僚依存の政治ではなくトップダウンで政策を実現。ロン・ヤス外交だけでなく中国、韓国とも関係を築いて、戦略的なアジア外交も成功させました。三角大福中の中で、笑って官邸を後にできたのは中曽根さんだけなのです」

 しかし、常に清廉潔白だったわけではない。

 当時を知る関係者曰く、

「田中角栄と福田赳夫が争った72年の総裁選で中曽根派は田中派につくのですが、このとき7億円の裏金が中曽根さんに渡ったと報道されたこともありました。彼は、ロッキード事件で田中元総理が逮捕された際、自らにも司直の手が伸びるのではないかと恐れていましたし、リクルート事件や東京佐川急便事件でもその名が取り沙汰された」

 さらに、

「中曽根さんの後継を安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3人から指名した“中曽根裁定”では、「後継は安倍」との大方の予測を裏切り竹下さんを指名。その背景には、竹下さんが桁違いの裏金を積む密約があったと囁かれていました」

 それでもスキャンダルに倒れなかったのは、強運ばかりが理由ではあるまい。

 中曽根氏にはひとつ心残りがあったという。

 先の服部氏は、

「晩年、何度か中曽根さんに話をお聞きしたことがありました。すでに90前後だったにもかかわらず、インタビュー中、彼の背筋はピンと伸び、表情も超然とされていた。ただ、一度だけ、私が“政権途中から憲法改正を棚上げされていたのでは”と尋ねたときは、“改憲を諦めたことは一度もない”と烈火のごとく怒っておられましたね。実際、政界引退後にも憲法改正試案を発表されており、改憲は悲願だったのでしょう」

 まさに“執念の人”であった。

「週刊新潮」2019年12月12日号 掲載

新潮社

最終更新:2019/12/11(水) 7:32
デイリー新潮

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