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日米野球(昭和9年)でベーブ・ルースが甲子園球場では1本もホームランを打てなかった謎に迫る

2019/12/11(水) 11:00配信

デイリー新潮

 1934年(昭和9年)秋、読売新聞社の主催で第2回日米野球が開催された。ベーブ・ルースら強豪打者が顔を揃えたアメリカン・リーグ選抜と全日本が対戦、全18試合(混合紅白戦含む)が行われた。アメリカチームはホームランを計47本も量産し、その中でルースはトップの13本を放った。打率も408(76打数31安打)で1位だった。ところが、2試合行われた甲子園球場では、ルースだけでなく、大リーガーは一度もホームランを打てなかったのである。

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 読売主催の第1回日米野球は1931年(昭和6年)。同社の正力松太郎社長がMLB選抜を招いて開催され、鉄人ルー・ゲーリッグや剛腕レフティ・グローブらMLB選抜を相手に、日本はオールスターチームを結成して挑むも、17戦全敗だった。

 第2回日米野球の甲子園球場での試合は第13戦、11月24日に行われた。3番ルースは5度打席に立ち、2単打、1四球、1三振、二塁ゴロの4打数2安打。来日直前に三冠王に輝いたルー・ゲーリッグは6打席で2安打1四球。8回、全日本の青柴憲一投手から中堅を襲う大三塁打を放ったが、打球はフェンス直撃ではなかった。前年の三冠王のジミー・フォックスは6打席安打なし、2四球だった。

 翌25日に同じく甲子園球場で行われた第14戦(日米両チームが混合しての紅白戦)でも、大リーガーからホームランは出なかった。5回の時点で0-3。1死満塁のチャンスでルースが登場。ホームランが出れば逆転という場面で、場内は沸き立った。マウンドのクリント・ブラウン投手の投げた球をルースはライトへ高々と打ち上げた。柵越えかと思わせる大きな当たりだったがキャッチされ、スタンドから大きなため息が漏れた。

 甲子園球場が開場したのは1924年(大正13年)8月。

「元々、野球専用球場として作られたものではありません。外野でラグビーやサッカー、陸上競技ができる多目的スタジアムとして設計されました。そのため、ホームから左右両翼は110メートル、中堅は119メートルに対し、左中間右中間は128メートルもあった。左翼、中堅、右翼を結ぶフェンスがほぼ直線で、フェアグラウンドは正三角形のように見えました」

 と解説するのは、12月に『ベーブ・ルースは、なぜ甲子園でホームランを打てなかったのか』(東方出版)を出版した野球研究家の永田陽一氏である。同氏は、大阪大学法学部を卒業後、ペンシルベニア大学の大学院で国際関係論を専攻。SABR(アメリカ野球学会)会員、野球文化學會会員で、野球を統計学的見地から客観的に分析している。今回の著書では、戦前の日米野球や日本初の野球リーグなどを紹介した。著書に『ベースボールの社会史 ジミー堀尾と日米野球』(東方出版)、『東京ジャイアンツ北米大陸遠征記』(東方出版)などがある。

 甲子園球場が開場した1924年(大正13年)夏の全国中等学校優勝野球大会では、計19本のホームランが飛び出したが、いずれも柵越えはなくランニングホームランだった。

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最終更新:2019/12/11(水) 11:00
デイリー新潮

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