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「吉良上野介」は悪人だったのか~「忠臣蔵」敵役の真実【にっぽん歴史夜話】

2019/12/15(日) 9:06配信

サライ.jp

文/砂原浩太朗(小説家)

「お手前いつの間にやら鮒(ふな)に似て参ったな。おうおうそのように力(りき)んだ所は鮒そのままじゃ……鮒だ、鮒だ、鮒侍だ、ハハハハハハ」

ある年代以上の方には、聞き覚えのある台詞だろう。映画の全盛期、毎年のように作られた忠臣蔵もので、敵役の吉良上野介(こうずけのすけ)が浅野内匠頭(たくみのかみ)に浴びせる悪口雑言である。

今となってはいくぶん分かりにくいが、ここでの鮒は「井の中の蛙」とおなじく、せまい世界で生きているものの比喩。つまり、浅野が世間しらずの田舎者だと愚弄しているのである。直後、内匠頭は耐えかねて刀を抜き、上野介へ刃傷におよぶのだが、じつはこの台詞、歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」(1748年初演)から引き継がれたもの(上記の引用は、2016年国立劇場・歌舞伎公演の台本から)。同作では実名をさけ南北朝時代の武将・高師直(こうのもろなお。第22回参照)に置き換えられているが、吉良の憎々しさは300年近くにわたって練り上げられているわけだ。日本史上、屈指の悪役ともいうべき吉良上野介、まことはどのような人物だったのか。

吉良上野介とは何者か

「上野介」は通称であり、吉良の名は義央(読み方には、「よしひさ」「よしなか」の両説がある)という。寛永18(1641)年生まれだから、刃傷事件のおりは数えで61歳。吉良家は足利氏の支流にあたる名族で、石高は4200石ながら官位もたかく(従四位上。ちなみに、浅野は従五位下)、朝廷との連絡や儀式の運営・指導にあたっていた。このような人々を高家(こうけ)と呼び、上野介はその筆頭格である。また、夫人が米沢上杉家の出だったため、藩主が急逝した同家に息子が養子として入り、家督をついだ。15万石の当主がじつの子というわけだから、身分が高いだけでなく、つよい後ろ盾をもっている。かなりの実力者と見るべきだろう。

元禄14(1701)年3月、勅使(天皇からの使者)が将軍への挨拶に江戸城をおとずれる。上野介はその接待役である播州赤穂(兵庫県赤穂市)5万石の城主・浅野内匠頭長矩(ながのり。1667年生の35歳)を指導することとなった。同月14日、城内・松の廊下で、浅野がとつぜん吉良に斬りつける。この日は一連の行事もおわり、勅使が京へ帰るいとま乞いのため登城することになっていた。上野介は傷を負ったものの、いのちに別条はなし。が、浅野は即日切腹のうえ、領地没収を命じられた。この裁きを不服とした赤穂の浪人たちが、翌年の12月14日、吉良邸に押し入って上野介を討ち取るという流れになる。

余談になるが、「国史大辞典」(吉川弘文館)吉良義央の項には、「赤穂浪士に殺害されたことで著名」「浅野長矩の旧臣たちの襲撃をうけて殺害された」などと記されている。筆者自身、はじめて見たときには「殺害」という言葉の冷厳さに驚いたものだが、事実だけを述べれば、そういうことになるのだろう。脚色された物語と歴史そのものの距離を見せつけられた思いだった。

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最終更新:2019/12/15(日) 13:16
サライ.jp

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