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『いだてん』がドラマ史に残る画期的な作品となった理由 “オリンピック”で重なった昔と今

2019/12/15(日) 8:35配信

リアルサウンド

 NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』が、12月15日、いよいよ最終回を迎えようとしている。それにしてもこのドラマは、本当に驚きの連続だった。個人的には、その内容はもちろん、それがオンエアされるタイミングともども、「ドラマの概念を超えた」と言ってもいいぐらい衝撃的な作品だった。

【写真】『いだてん』撮影現場の様子

 そもそも、本作の制作が発表された当初、誰がこのようなドラマになると想像しただろうか。かつて、NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』で一大センセーションを巻き起こしたとはいえ、大河ドラマは初執筆となる脚本家・宮藤官九郎が、“オリンピック”を題材に描き出すオリジナル作品という触れ込みだった本作。その物語は、大きく二部に分かれており、第一部は、まだ「スポーツ」の言葉もない時代、1912年に日本人としてオリンピックに初参加した金栗四三という人物が、そして第二部は、1964年の東京オリンピックの開催に向けて尽力した田畑政治という人物が、それぞれ主人公になるという。というか、彼らは一体、どんな人物なのだろう? ここまで知名度のない人物が大河ドラマの主役となることは、まさしく異例中の異例と言える出来事だった。

 本作の制作が発表されたとき、宮藤官九郎は、こんなメッセージを発表していた。

「日本人が初めてオリンピックに出場した明治の終わりから、東京にオリンピックがやってきた1964年まで、およそ50年。戦争と政治と景気に振り回された人々の群像劇。歴史に“動かされた”人と町の変遷を一年かけてじっくり描く予定です」

 いや、実際蓋を開けてみれば、確かにその通りではあったのだが、それらの人物たちをじっくり描き出すことが、来年に二度目の東京オリンピックを控えた今――さらに言うならば、その開催に向けて、どうにも足並みがそろっているとは言い難い今、視聴者にこれほどまで悲喜こもごもの深い感慨をもたらせるとは、正直夢にも思わなかった。そもそも、オリンピックとはどんなものであり、そこに国として参加することは、選手として参加することは、果てはそれをホスト国として開催することは、それぞれの時代において、どんな意味を持っていたのか。それは、現在のオリンピックと何が同じで、何が違うのだろうか。

 そんな問い掛けが、大上段に振りかざした問題提起ではなく、あくまでもその時代を生きてきた人々を描くことによって浮かび上がってくる点が、何よりも衝撃的だったのだ。第一部、第二部ともに、一応主役らしき人物はいるものの、その人の生涯にスポットを当てるのではなく、まさしく“時代”そのものを主人公として、そこに生きる人々の群像劇を描き出すこと。

 その際に、最もチャレンジングだったのは、やはり本作に登場する人物の多くが、実在の人物であった点だろう。金栗四三(1891年‐1983年)、田畑政治(1898年‐1984年)、そして古今亭志ん生(1890年‐1973年)といった明治生まれの人物たちをはじめ、膨大な数に上る登場人物たちのほとんどが実在の人物であり、実際の名前でドラマに登場するのだ。一応最後に、「このドラマは、史実を基にしたフィクションです」という但し書きは入るものの、近年の朝ドラのように、実在の人物をモデルにした“フィクション”であることを強調しながら、その名前も設定も大胆に変えて描き出すやり方とは異なり、実在の人物を徹底的に調べ上げながら、その知られざる関係や繋がりを、“想像”を交えながら描き出してみせること。戦国時代の人々ならばいざ知らず、その本人はともかく、その家族や親族は存命である人物を、ドラマのなかで自由に描き出すことは、相当難易度が高いと同時に、その許可取りといった面でも、膨大な手間暇が掛かったことだろう。けれども、「事実は小説よりも奇なり」とは言うもので、一見するとフィクションのように思える出来事が、実は資料的な裏付けのある実際の出来事だったりすることも、本作の面白さのひとつだった。

 無論、その背景には、気が遠くなるほどの労力を掛けた、徹底した事前調査があったという。一般に流通している書籍や資料はもちろん、本人の日記や手紙などの一次資料、さらには現地に赴いて感じた町や建物、そして人々の雰囲気や関係者の声に至るまで。宮藤官九郎が、そこから物語を立ち上げるための資料の数と、それらをもとに綿密に組み上げていった街並みや背景などVFXの数は、大河ドラマ始まって以来の膨大な規模になったという。

 それはどこか、2016年に公開され、間もなく新作『この世界の(さらいにいくつもの)片隅に』が公開されようとしている片渕須直監督のアニメ映画『この世界の片隅に』を彷彿とさせる。一次資料を丹念に読み込むことはもちろん、自らの足で現地に赴き、その風景はもちろん、そこに暮らす人々や関係者の声に耳を傾けながら、当時の人々はもちろん、当時の物の形やその位置に至るまで、丹念に調べ上げながら、創作に反映していったという『この世界の片隅に』。さらには、いわゆる歴史上の人物のような著名人ではなく、これまで語られることのなかった、その時代を生きた市井の人々(この世界の片隅)を描き出すこと。そのふたつが、この二作品には共通しているように思うのだ。

 それにしても、ひとつの物語を生み出すためには、これほどまで長い年月と労力を掛けた調査が必要とされるものなのか。そんなクリエイターとしての畏怖すべき“凄み”のようなものが、これらの作品には確かにあるのだった。しかも、『いだてん』の場合は、“戦争”のみならず、“オリンピック”という今を生きる我々にとっても、馴染み深い題材を扱っているのだから。

 そう、“オリンピック”という馴染み深くはあるけれど、その内実については、これまであまり描かれてこなかった題材を、その美談のみならず、その裏側にある思惑や画策に至るまで、分け隔てることなく描き出した『いだてん』。それを観ていて驚いたのは、そこで描かれていることが、必ずしも過去のことではなく、まるで現在をトレースしたかのように思えることだった。安易な政権批判や社会批判にはならないギリギリのラインで描き出される、さまざまな問題提起。そこには、女性の活躍から、スポーツの政治利用に至るまで、現在にも通じるようなさまざまなトピックが、実に巧みに散りばめられているのだった。しかも、クドカンらしい、実に痛快なタッチで。

 これは本当に、驚きと言っていい語り口だった。〈あれからぼくたちは/何かを信じてこれたかなぁ〉――SMAPの「夜空ノムコウ」の歌詞ではないけれど、思わず立ち止まって、自分たちの情況を考えてしまうような、そんな驚くべき強度が、このドラマには確かにあったのだ。しかし、〈夜空のむこうには/もう明日が待っている〉。そう、来年には、二度目の開催となる東京オリンピックが控えているのだ。

 本作の縁の下の力持ちとも言える「取材」を担当した渡辺直樹は、リアルサウンド映画部のインタビューで、本作に関して次のように語っていた。

「『いだてん』はオリンピックと落語を切り口に、政治から文化に至るまでの今に繋がっている“日本”を横断していくドラマだなと深く感じました。このドラマのために読んだ、日記だったり、手紙だったりから、ささやかな個人の思いを知ることで、僕自身ちょっとだけこの国の見え方や時代の見え方が変化しました。見ている人にとってもそうであったらとても嬉しいなと思います」

 まさしく、その通りだと思う。「この国の見え方や時代の見え方が、ちょっとだけ変化する」──そんな大河ドラマは、自分の記憶にある限り初めてだし、いわんや民放の地上波ドラマには、ほとんど見当たらないよう思う。それぐらい画期的なドラマだったのだ。

 さて、これまで46回に渡って描き出されてきたこの巨大な物語も12月15日に放送される「時間よ止まれ」で、いよいよ最終回を迎える。1964年10月10日。東京オリンピックの開会式であるこの日、第二部の主人公である田畑(阿部サダヲ)と、第一部の主人公である金栗(中村勘九郎)――そして、そんな2人と並走するように落語界を駆け抜けてきた志ん生(ビートたけし)は、これからオリンピックが始まろうとするこの日に、果たして何を思うだろうか。そして、膨大な資料と史実から、このような時空を超えた一大エンターテインメントを生み出してきた脚本家・宮藤官九郎は、その最後に一体どんな仕掛けを用意しているのだろうか。

麦倉正樹

最終更新:2019/12/15(日) 8:35
リアルサウンド

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