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逮捕直前に自決した近衛文麿に、昭和天皇が思わず呟いた言葉とは

2019/12/16(月) 9:00配信

デイリー新潮

 74年前の今日、つまり1945年12月16日未明、戦前に内閣総理大臣を3度務めた近衛文麿が、東京荻窪にある荻外荘で青酸カリを用いて自殺した。

 慶應義塾大学の細谷雄一教授の著書『戦後史の解放II 自主独立とは何か』(新潮選書)から、近衛の最後の日々についての記述を再構成してお伝えしよう。

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 12月6日にGHQは、近衛に対して戦犯容疑者としての出頭命令を発した。そのとき近衛は、軽井沢にある自らの別荘に滞在して寛いでいたところであった。

 近衛文麿は12月11日に軽井沢を発って、東京へ向かった。友人宅で数日過ごした後に、14日には自宅の荻外荘へと入った。戦犯容疑者として巣鴨プリズンに出頭する最終期限日は、12月16日である。残された日は、あと2日。

 12月15日。多くの知人たちが、近衛が居る荻外荘を訪れた。彼らの多くは、近衛の行く末を案じた。自殺を決意しているのではないかと疑う者もいた。近衛はウィスキーを傾けながら、ひとびとの話に聞き入った。

 夜の11時頃、来客も帰り家族も寝静まると、次男の通隆が近衛の寝室に入った。「一緒に寝ましょうか」という通隆の申し出に、人がいると自分は眠れないと、丁寧に断った。通隆は心配だった。きっと父は自殺をするのではないか。文麿が風呂に入っている間に、通隆は寝具や衣服のなかにピストルや毒物がないか探した。見つからなかった。

 しばらくの間、寛いだ空気の中で雑談をした後に、通隆は「何か書いてください」と鉛筆便箋を渡した。近衛は自らの半生を回想し、これまでの歩んだ道のりを振り返った。これまで実にいろいろなことがあった。そして、自らの思いを書き残した。

「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対して、深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として、米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である」

 若き日々から、近衛は英米の掲げる正義を偽善とみなして、それを批判する自らの政治姿勢を隠さなかった。その近衛が、アメリカの正義によって裁かれる運命となった。それだけはどうにかして逃れたいことであっただろう。

 午前2時を過ぎた頃、通隆は「明日、(巣鴨へ)行っていただけますね」と念を押した。「そのとき、父はいやあな顔をした」と、通隆は覚えている。そして、用があったら呼んでくださいと伝えて、部屋を出た。それから通隆は、隣室で眠りに入った。

 12月16日未明、近衛は一人になった寝室で青酸カリを用いて自殺をした。公爵家の華麗なる血筋を引く華族政治家の終焉である。享年54であった。

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最終更新:2019/12/16(月) 11:19
デイリー新潮

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