ここから本文です

2つのサッカー界をリードした釜本姉弟対談「磨くべきは個の強さ」

1/2(木) 9:02配信

FRIDAY

東京オリンピック、パラリンピックの年を迎え、サッカーU-23代表や全盲の人がプレーするブラインドサッカーにも注目が集まっている。釜本邦茂氏は前回1964年の東京五輪に出場し、1968年メキシコ五輪では銅メダルを獲得。国際Aマッチで75得点をあげて歴代1位となった日本を代表するサッカー選手だ。一方、姉の釜本美佐子氏(79)は、目の病気により70歳を過ぎて全盲になりながら、ブラインドサッカーを日本に最初に持ち込み、2018年10月に日本ブラインドサッカー協会理事長を退任するまで、普及に尽力したことはあまり知られてない。このほど実現した対談の中で、健常者、障がい者関係なく、共通して大切なことがあると訴えた。

オリンピック大工事1964 建設中の首都高や東京駅の写真を発掘

――お互いにどんな存在?

邦茂 姉さんは僕にとって怖いよ、賢い人ですから。小さい頃、野球をやっていてエースで4番。川上哲治さん、藤村富美男さん、別当薫さんに憧れてね。ただ、小、中学生の先生方たちは放課後、ボール蹴りをすることが多くて、姉さんは小中学校の担任の先生に「(弟に)サッカーをやらせ」と言ったみたい……。サッカーをはじめたのは、姉さんの策略だった(笑)。もし、言われてなかったら野球やるつもりだったから。

美佐子 弟の名前がこれだけ有名になりましたから、私はよく「あの釜本邦茂さんの姉」と紹介されることが多いんですが、「いや、私の弟です」って言い返しますよ(笑)。

――邦茂さんが早稲田大学2年の頃に、1964年の東京オリンピック(五輪)を迎えます。

邦茂 当時はまだ日本代表に選ばれるかどうかはわからなかった。早大の1年生の時から試合出してもらって、ちょっと目立っていたんでしょう。千葉県検見川の東大グラウンドで3カ月間合宿があって、46人ぐらい来て、ふるいにかけて23人に絞る。最後にメンバーをA、Bの2つに分けて、Aはヨーロッパへ50日間、Bは東南アジアへ3週間行く。Aが五輪の主力になることは明らかだったわけです。メンバー発表とき、Aの最後ぐらいで呼ばれました。その後、ロシアに遠征したんですが、点取り屋の先輩の主力選手が試合でけがをして僕に出番が回ってきた。そのときに内心、(チャンスが)手のひらに乗ったと思ったね。

――邦茂さんの場合、1968年のメキシコ五輪の7得点がクローズアップされますが、その4年前の東京五輪でも初戦のアルゼンチン戦でアシストしました。

邦茂 僕は点を入れるのが仕事です。なのに前回の東京五輪では1点しか決められなかった。そのとき思ったのは、日本では一流の選手かもわからんけど、世界では三流の選手だって。そこからはどないして一流になれるかってずっと考えていました。

美佐子 弟が高校、大学、そして五輪前に海外遠征に行く頃は日本サッカー協会にあまりお金がなかった。だから母などと一緒に奉加帳を持ってご近所を回って、(遠征費を補う)ご寄付をいただいていました。

邦茂 一流になりたいという明確な目標を持てたのも、五輪に出られたから。(周囲の力で)出してもらったわけやから。あの有難さは今でもいろんなところで話をします。だから姉さんが、視覚障がい者に可能性を広げ、さらに夢も与えられるブラインドサッカーを持ってきたことはすごいと思うよ。

1/2ページ

最終更新:1/2(木) 9:02
FRIDAY

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事

Yahoo! JAPAN 特設ページ